大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

最高裁判所第二小法廷 昭和59年(あ)5930号 決定 1987年12月10日

本店所在地

東京都港区北青山三丁目一一番一四号

日本観光貿易株式会社

右代表者代表取締役 權赫始

(旧商号 日本観光株式会社)

(旧代表者代表取締役 舛井敏夫)

本籍

石川県河北郡内灘町字大根布三丁目一二四番地

住居

東京都世田谷区野毛一丁目一三番一六号

会社役員

舛井敏夫

昭和九年八月一〇日生

右の者らに対する各法人税違反被告事件について、昭和五九年三月一九日東京高等裁判所が言い渡した判決に対し、被告人らから上告の申立があったので、当裁判所は、次のとおり決定する。

主文

本件各上告を棄却する。

理由

弁護人錦織淳、同鈴木一郎の上告趣意のうち、判例違反をいう点は、所論引用の各判例は、いずれも事案を異にして本件に適切でないから、所論は前提を欠き、その余は、単なる法令違反、事実誤認の主張であって、刑訴法四〇五条の上告理由に当たらない。

よって、同法四一四条、三八六条一項三号により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 藤島昭 裁判官 牧圭次 裁判官 島谷六郎 裁判官 香川保一 裁判官 奥野久之)

○上告趣意書

昭和五九年(あ)第五九三号

被告人 (一)日本観光株式会社

(二)舛井敏夫

右の者らに対する法人税法違反被告事件について、弁護人らの上告趣意は次のとおりである。

昭和五九年九月七日

弁護人 錦織淳

弁護人 鈴木一郎

最高裁判所第二小法廷 御中

目次

第一章 租税処罰法における近代責任主義と本件の特質・・・・・・二一三二

一、はじめに・・・・・・二一三二

1 問題の所在・・・・・・二一三二

2 本上告趣意書の方法・・・・・・二一三六

二、租税処罰法における近代責任主義の理念とその意義・・・・・・二一三八

1 行政犯と刑事犯・・・・・・二一三八

2 租税逋脱犯の本質・・・・・・二一三九

3 租税処罰法における近代責任主義の理念と意義・・・・・・二一四〇

三、租税逋脱犯成立要件の個別的検討・・・・・・二一四一

1 構成要件について・・・・・・二一四一

(一)罪刑法定主義・・・・・・二一四一

(二)逋脱犯の構成要件の基本構造・・・・・・二一四一

(三)納税義務の存在・・・・・・二一四二

(四)「偽りその他不正の行為」の存在・・・・・・二一四三

(五)因果関係の存在・・・・・・二一四七

2 故意について・・・・・・二一四七

(一)故意の内容=認識の対象・・・・・・二一四七

(二)納税義務の存在についての認識・・・・・・二一四八

(三)「偽りその他不正の行為」の存在についての認識・・・・・・二一五〇

(四)故意と過失の分水嶺・・・・・・二一五一

―「概括的故意説」「未必の故意論」「具体的事実の錯誤説」批判―・・・・・・二一五一

(1)「概括的故意説」「未必の故意論」批判・・・・・・二一五一

(2)「具体的事実の錯誤論」批判・・・・・・二一五二

(3)故意と過失の分水嶺・・・・・・二一五二

四、近代責任主義の理念と「事実主処罰論」の誤り・・・・・・二一五六

1 租税逋脱犯の組織的・団体的性格・・・・・・二一五六

2 「事業主処罰論」の根拠と意義・・・・・・二一五六

3 「概括的故意説」と「具体的事実の錯誤説」による「事業主処罰」の故意犯へのすり替え・混同・・・・・・二一五九

4 個人責任原理の貫徹・・・・・・二一六二

五、量刑の基本理念・・・・・・二一六三

第二章 判例・・・・・・二一六四

一、最高裁判所の判例・・・・・・二一六四

二、高等裁判所の判例・・・・・・二一六八

第三章 期末たな卸土地の除外・・・・・・二一七三

一、原判決の判示と構成・・・・・・二一七三

1 原判決の表示・・・・・・二一七四

2 原判決の構成・・・・・・二一七六

二、原判決の具体的検討と事案の性格・・・・・・二一七六

1 不良在庫処分についての了承及び処理の一任の時期・内容(<1><2>)・・・・・・二一七七

2 本件土地の売却の交渉・契約について(<3>)・・・・・・二一八一

3 確定申告に先立つ浅尾の説明(<4>)・・・・・・二一八二

4 確定申告時の被告人の認識・・・・・・二一八三

三、原判決の誤りと問題の所在・・・・・・二一八五

四、上告理由・・・・・・二一八六

1 第一点 判例違反・・・・・・二一八六

(一)「偽りその他不正の行為」について・・・・・・二一八六

(1)最高裁判所判例・・・・・・二一八六

(2)原判決の判例違反・・・・・・二一八八

(二)逋脱の故意(非損金性の認識)について・・・・・・二一八九

(1)高等裁判所判例・・・・・・二一八九

(2)判例における益金性・損金性の認識についての判断・・・・・・二一九一

(3)原判決の判例違反・・・・・・二一九二

2 第二点 法令違反・・・・・・二一九三

3 第三点 事実誤認・・・・・・二一九四

第四章 土地重課税・・・・・・二一九四

一、原判決の誤りと土地重課税に関する上告理由の構成・・・・・・二一九四

二、建売り分土地について・・・・・・二一九五

1 原判決の判示とその初歩的誤り・・・・・・二一九五

2 「偽りその他不正の行為」の存在・・・・・・二一九六

3 故意の不存在・・・・・・二一九七

(一)「所得の発生」についての認識の不存在・・・・・・二一九七

(二)「偽りその他不正の行為」についての認識の不存在・・・・・・二一九七

(三)「逋脱の結果」についての認識の不存在・・・・・・二一九七

4 上告理由・・・・・・二一九七

(一)第一点 判例違反・・・・・・二一九七

(二)第二点 法令違反・・・・・・二一九八

(三)第三点 重大な事実の誤認・・・・・・二二九八

第五章 交際費限度超過分の損金不算入・・・・・・二二〇一

一、原判決の判示とその基本的誤り・・・・・・二二〇一

二、「偽りその他不正の行為」の不存在・・・・・・二二〇三

1 全体の構造・・・・・・二二〇三

2 被告会社全体における「偽りその他不正の行為」の不存在・・・・・・二二〇五

3 被告人舛井の行為としての「偽りその他不正の行為」の不存在・・・・・・二二〇七

三、故意の不存在・・・・・・二二〇八

1 非損金性についての認識の不存在・・・・・・二二〇八

2 「偽りその他不正の行為」についての認識の不存在・・・・・・二二〇九

四、上告理由・・・・・・二二〇九

1 第一点 判例違反・・・・・・二二〇九

2 第二点 法令違反・・・・・・二二〇九

3 第三点 重大な事実の誤認・・・・・・二二一〇

第六章 貸倒れ損失発生の判定要素・・・・・・二二一二

一、貸倒れ損失発生の判定要素・・・・・・二二一二

二、上告理由・・・・・・二二一三

1 貸倒れ損失の発生について・・・・・・二二一三

2 所得の認識について・・・・・・二二一五

第七章 量刑不当(上告理由)・・・・・・二二一六

一、基本的な問題点・・・・・・二二一六

二、本件の量刑事情・・・・・・二二一七

三、結論・・・・・・二二一七

終章 結語・・・・・・二二一八

第一章 租税処罰法における近代責任主義と本件の特質

一、はじめに

1 問題の所在

租税逋脱犯処罰の本質については、これも国家の課税権侵害に対する金銭的賠償であるとするいわゆる「国庫説」と、申告納税制度を破壊するような反倫理的・反社会的行為に対する倫理的非難として行為者の意思責任を重要視する「責任説」とが対立してきたといわれる。「国庫説」と「責任説」との相剋は、租税刑事法のあらゆる部分で問題となるが、今日では、実務においても学説においても「責任説」が次第に支配的な地位を占めるに至っている。「国庫説」が支配的であった時代には、租税逋脱犯に対する刑事制裁については、脱税のような利欲犯に対して経済的制裁を加えれば足りるとして、金銭的制裁中心主義がとられ、自由刑は名目的ものに過ぎなかった。しかし、国民の租税負担の増加とわが国経済の低成長期への移行はこのような考え方への自省を促し、申告納税制度の根幹を破壊し、税負担の衡平を侵害する逋脱犯に対しては、厳罰を科すべきであるとする「責任説」が有力化してきた。即ち、租税逋脱犯の罪悪性、反社会性を処罰するという意味での租税刑法の責任刑法化を提唱するのが「責任説」であった。このように、「責任説」は「自由刑の採用と定額主義の廃止」「処罰寛大主義から処罰励行主義へ」(注1)の移行を伴ったものであり、昭和五五年三月一〇日東京地裁判決における実刑判決の言渡以降の東京地裁刑事実務の傾向は、かかる「責任説」の本格的台頭を物語るものである。本件における実刑判決の言渡(一審)とその維持(原審)もまた、その量刑のみに着目するとき、あたかも右の流れに沿うかの如くである。

しかし、右の如き社会的背景のもとに「責任説」に立脚した場合、逋脱に対する刑事制裁は、真に社会的非難に値する反倫理的罪悪性を有する者に対し科するものであることから、そのためには、刑罰は責任を前提として科するという責任主義を徹底させることが要請され、逋脱犯の成立要件の内でも、とりわけ行為者の「認識」=主観的要素が重視されなければならない。即ち、租税逋脱犯は、行政犯ではなく刑事犯であり、過失犯ではなく故意犯を本質とするから、近代刑事法の責任主義の原則が徹底されなければならない。従って、「国庫説」及びこれにひきずられた実務において、一部の所得脱漏の認識さえあれば客観的に免れた全税額につき逋脱犯が成立するとする「全脱額説」や、逋脱の故意としては単に申告額を上回る所得が存在しているとの認識があれば足りるとする「概括的故意説」や、或は、免れた所得の一部につき認識を欠いたとしてもそれは「同一構成要件内に属する具体的事実の錯誤」に過ぎないとの説が打ち出され、結果として過失犯をも処罰の対象としてきたことは、厳しい批判の対象となる。その意味で、「国庫説」は旧憲法下の賦課課税制度の残滓として権力中心主義の産物であり、取締本位の結果責任の思想へと走りやすいのに対し、「責任説」は近代的刑事法への純化を図ることにより被告人の人権の擁護を貫こうとするのである。そして、構成要件の保障的機能の重視、「疑わしきは被告人の利益に」などの基本的な原則の順守は、租税刑法の一般刑法化、租税刑事法の一般刑事法化への純化にとって、不可欠なものとなる。

重要なことは、「国庫説」から「責任説」への転換は、たんなる重罰主義への移行ではないということである。それはあくまで、近代刑事法原理の徹底化を図るものであるがゆえに、租税刑事法学に「理論的黎明期」をもたらすものであったと言えるのである。(注2)従って、訴訟経済を理由に実体的真実の発見を投げやりにし、個々の取引の認識の有無を確定せず「おおよそのところでの事実認定で済ませる」などということは許されず、「概括的認識を主張する『国庫説』に拠りながら、量刑については、懲役刑の実刑を課するなどという見解は、租税処罰法の自殺的な見解とまではいえないとしても、到底適正な量刑とはいえ」ないのである。(注3)それは、たんに理論的な破綻であるにとどまらず、刑事政策的にも誤りであり、租税正義の観念にも反するものであるといえよう。(注4)

ところで、本件においてはどうか。本件では、架空仲介手数料の計上の如く逋脱犯を構成するとされてもやむを得ない部分(その動機等の情状は別として)が存するものの、期末たな卸土地の除外、交際費限度額超過分の損金への計上、土地重課税の計算の過誤等の部分については様相を全く異にする。被告人舛井の「偽りその他不正の行為」への関与・加功の有無・程度及びこれに対する認識の点において、両者は全く異質である。一審実刑判決及びこれを維持した原判決は、これらをことごとく同質視したうえ、一括して「偽りその他不正の行為」と断じ、或はその認識あるものとした。叙述の観点からすれば、その過ちは余りに明白である。本件一審判決のみについてはすでに公刊された刊行物において判決の紹介がなされ、コメントが付されているが、そこで、

「右の点に関連して、本判決は、被告人の犯意につき、被告人の不正経理処理に対する関与・指示状況に照らし、よしんば経理担当者の具体的な不正処理を被告人が知らなかったとしても、具体的な処理を一任していたことなどからすれば、その結果を容認していたものとして、不正経理処理全般に対して逋脱の故意の存在を認めた。同一構成要件内における具体的事実の錯誤の理論をも併せ適用する趣旨であるかとも思われるが、本件では概括的所得を認識していたとして、虚偽過少申告行為自体も全体として不正行為に当たるとされていることに留意すべきであろう。」

と指摘されているのは、(注5)まさしく、本件一審判決及びこれをそのまま維持した原判決の根本的誤謬を、はからずも鋭くえぐり出したものといえよう。即ち、一審判決および原判決いずれも、金銭的賠償を本旨とする「国庫説」に拠りながら、量刑のみ懲役刑の実刑を科すという、最も忌むべき過ち、絶対に避けねばならぬ過ちに陥ったものである。

このような過ちは、昭和四〇年代まで「国庫説」が支配的であり、「責任説」の真の意義と内容が自覚されるに至ったのは最近のことであるため、過渡期における理論的混乱とも解しうる。しかし、理論において「国庫説」、量刑において「厳罰主義」という奇妙な結合がとうてい許されない以上、右の如き誤りの原因が更に解明されなければならないであろう。即ち、たんに未だ「国庫説」の残滓が根強いということに原因を求めるのみでは足らず、「責任説」が刑事法への純化を図る過程において、理論的に未解明ないし解明不十分な点がなお存するということが指摘されなければならない。

その主要な点は二つある。一つは、「責任説」がいわゆる「概括的認識説」に対する批判として、「逋脱犯における逋脱の犯意につき、具体的に各勘定科目ごとの個別的な犯意である必要はないと解されるが、それは免れた全税額につき一応脱税の犯意が推認されるからなのである」と述べていることにかかわる。(注6)このような表現は誤解を招きやすいというのみでなく、「責任論」のめざす刑事法への純化が刑事手続法の領域においては不徹底であることを物語っているという点である。(「疑わしきは被告人の利益に」の意義)。

二つ目は、現代社会における租税逋脱犯が企業組織と密接な関連を有していることから、逋脱犯のこのような組織的・団体的性格と純化された責任刑法の個人責任原理との関係とが、明らかにされる必要があるのに、この点については未だ理論的整合性をもって語り尽くされていないということが挙げられる。それは、たんに租税逋脱犯における共犯理論ないし「共犯と錯誤」論の平面にとどまるものではない。(注7)「共犯者(従業者)が、逋脱犯という単一の構成要件内において実行行為をしたときは、他の共犯者(代表者、個人事業主)が、その行為と結果、すなわち、不正の行為の存在とそれにより免れた部分の税額の存在について全く認識がなくとも、故意の責任を阻却しないことはいうまでもない」などという理論によって、「個々の不正行為分担者は、特段の悪質性が認められない限りは訴追されないのが通例」(注8)という実務上の運用の便宜の問題を理論の問題にすり替えることは許されない。それは、「共犯と錯誤」理論に藉口して一種の「転嫁責任」ないし「監督責任」を容認するものにほかならず、「団体責任」論ないし「縁坐・連坐」制を肯定するものである。「事業主処罰」の必要という取締目的により過失をも処罰することが個人責任原理を基本とする「責任論」の見地からとうてい許されざるものであることはいうまでもない。ここには、未だ行政犯と刑事犯との本質的な分離が完成されておらず、変形された「国庫説」の残滓を垣間みることができる。

本件一審判決につき、公刊された判例集において前記のようなコメントが附されたのは、一審判決が、「期末たな卸土地の除外」について被告人舛井の関与と故意責任を肯定するにあたり、

「その浅尾が措った不正処理も、結局、被告人舛井の納税に対する姿勢が影響して生じたもの」

などと述べているからであり、このくだりこそまさしく「監督責任」論により「事業主」の「過失」を処罰せんとする本件の特質を端的に物語るものにほかならない。そして、本件原判決は、一審判決よりも更に杜撰かつ乱暴な議論によりこれを肯定しているのである。

2 本上告趣意書の方法

本上告趣意書においては、叙述のような基本的視点から、まず第一に、租税処罰法における近代責任主義の理念について論じ、構成要件から量刑に至るまで、更には刑事手続の問題まで一貫した思想として展開されるべきものであることを明らかにする。そして構成要件、故意、量刑等の各個別につき、問題点を具体的に論じ、検討する。次いで、その内でも、前述したように「企業組織と租税逋脱犯」の観点から「事業主責任」論について独立に論じ、この領域においても責任主義が問題となり、「責任説」が「国庫説」から完全に訣別すべきことを明らかにする。

そして、第二に、租税処罰法における近代責任主義が判例理論としても基本的に定着していることを明らかにし、最高裁判所の判例、高等裁判所の判例の存在とその趣旨とするところを紹介する。なお、以上の過程で必要に応じ、本件上告理由たる判例違反の主張の直接の対象とはならない下級審判例等についても論ずる。

第三に、以上の基本的前提に立脚したうえ、本件における具体的上告理由を明らかにする。そこでは、記述の便宜上、「期末たな卸土地の除外」「土地重課税」「交際費限度超過分の損金算入」「貸し倒れの認定」等の事項別に論じ、各事項ごとに判例違反の存すること、更には原判決を破棄しなければ著しく正義に反するような法令解釈の誤り、重大な事実誤認の存することを明らかにする。そして、最後に、本件原判決の量刑が甚だしく不当であり、その点からも原判決が破棄を免れないものであることを明らかにする。

(注1)河村澄夫「税法違反事件の研究」司法研究報告第四輯第八号三〇頁以下。

(注2)松沢智・井上弘通「租税実体法と処罰法」二〇頁。

(注3)松沢智「租税法の基本原理」二三七頁、二三八頁。

(注4)租税処罰法の基本理念、特に「国庫説」と「責任説」の対立については、主として、松沢・井上「前掲書」、松沢・前掲「租税法の基本原理」、松沢智「租税に関する犯罪」現代刑罰法体系第二巻七五頁、松沢智「逋脱犯の訴追・公判をめぐる諸問題」租税法研究九号五一頁、松沢智「脱税と処罰」ジュリスト総合特集三三号二二四頁、板倉宏「租税刑法の基本問題」、板倉宏「租税刑法をめぐる諸問題(一)~(九)」判例タイムズ一八四号四三頁、一八五号一五頁、一八七号三〇頁、一八九号二頁、一九一号一三頁、一九四号三一頁、一九九号二一頁、二〇五号二七頁、二〇八号4頁、板倉宏「租税刑事制裁法の現代的課題」税法学二〇〇号七九頁、板倉宏「租税刑事法の今日的問題」租税法研究一六頁等によった。

(注5)判例時報一〇九〇号一八四頁。

(注6)松沢・井上「前掲書」四八頁。

(注7)堀田力「租税ほ脱犯をめぐる諸問題(四)」法曹時報二二巻一一号八七頁。

板倉宏「租税犯における故意(上)」判例タイムズ一九一号一六頁注(2)。

(注8)堀田力「前掲書」八七頁。

二、租税処罰法における近代責任主義の理念とその意義

1 行政犯と刑事犯

「責任説」の強力な推進者である板倉宏教授の論稿・前掲「租税刑法の基本問題」が「刑事犯と行政犯の区別に関する諸説の検討」から説き起こし、同・前掲「租税刑法をめぐる諸問題(一)~(九)」が「いわゆる行政犯の観念に対する批判的考察」からまず展開されていることからも理解されるように、「責任説」は租税逋脱犯を一般刑法犯と同質のものととらえ、租税刑法への一般刑法への純化を唱えるものである。同教授の指摘されるように行政犯と刑事犯との区別が本質的なものではなく、従って両者の間の流動性を認めるかどうかはともかくとして、少なくとも租税逋脱犯における「責任説」は、逋脱犯を刑事犯として捕え、一般刑法犯と同様の理論で規律していこうとするところに主眼がある。

これに対し、「国庫説」の提唱者である美濃部達吉博士は、「行政犯罪は刑事犯罪とは甚だ性質を異にし、多くの場合に於いて同一の原則を以ってはこれを律することができない」(注1)とされる。即ち、行政犯は「公法上の義務違反なるが故に罰っせらるることの性質に基づくもので、行政犯の責任は刑事犯の責任よりも寧ろ不法行為の責任に類似して居る」(注2)から、「刑事犯に対して規定せられて居る刑法総則の定めを、無条件に其の儘行政犯に適用することが不条理であり不適当であることは勿論」(注2)であり、更に進んで「単に法令に依る明示的な例外規定ある場合のみならず、解釈上当然の条理と認むべき場合も亦特別の規定ある場合と等しく、其の適用を除外することが、条理上欠くべからざる必要であり、又それが法律の正当なる解釈である」といわれる。(注3)そして、行政犯の法定責任者、法人の業務に関する行政犯、行政犯と共犯、行政犯と犯意の四点につき、刑事犯との差異が論じられている。

また、田中二郎博士は、同じく行政法学者の立場から、「行政犯は、行政上の目的のためにする命令禁止に違反し、行政目的に侵害を加えるが故に処罰される行為」(注4)とし、「行政刑罰と刑法総則の適用」に関し、「理論上、行政刑罰と刑事罰の区別が可能であり、この区別に従って、その適用原理に差異を認めるだけの合理的根拠がある」場合には行政犯については刑法総則の適用を排除すべきものとされる。そして、刑法三八条一項の適用につき「行政犯にあっては、一般的に必ずしも犯意を要件とせず過失あるをもって足りるものと解すべきである」とされるのである。(注5)

2 租税逋脱犯の本質

「国庫税」は、租税逋脱犯を行政犯として把え、一般刑事犯との差異を協調する。美濃部博士は「脱税犯は行政犯中にも殊に他と異なった特殊の性質を有するもので、況んやこれを刑事犯に比較すれば、著しく性質を異にするもの」とし、「脱税犯に対する処罰」は、「それは形式的には勿論刑罰の一種であるが、実質的には寧ろ不法行為に基づく損害賠償に類するもので、納税義務者が其の義務に違反して不正に其の義務を逋脱することに因り、国庫に及ぼすべき金銭上の損失を防止することが、其の唯一の目的とする所である。これを民法に比較すれば、恰も債務の不履行に対する損害賠償の予定(民法四二〇条)とも見るべきものである。其の処罰を科せられる所以は、其の行為の罪悪性に在るのではなく、一に国家に金銭上の損失を加ふることに在る。行為の罪悪性の軽重は全く処罰には関係なく、専ら脱税に因って国家に及ぼすべき金銭上の損失の高に応じて処罰が定まるのであって、此の点に脱税犯が他の総ての販売と異なる重要な特色が有る。」(注6)とされる。即ち、租税逋脱犯の反倫理性は一般行政犯にもまして更に希薄化されている。

これに対し、「責任説」は租税逋脱犯の反倫理的・反社会的性格を協調し、その罪悪性を処罰しようとするものであり、そこには一般刑法犯ないし自然犯との間に何らの差異も見出すことは出来ないとする。そして「租税犯の一般犯罪化、租税刑法の一般刑事法化」(注7)が提唱されるのである。

3 租税処罰法における近代責任主義の理念と意義

このように「責任説」は、租税逋脱犯の反倫理的性格に着目することから、「倫理的価値と対応しない刑罰は、刑罰として無意味かつ無力なのである」とし、「罪責と対応した刑罰・倫理的非難の強弱に対応した刑罰すなわち近代刑法の基本原則である責任主義に立脚した刑罰によらなければならない」(注8)とする。ここでいわれている「責任主義」の意義は、たんなる「罪刑の均衡」という狭義のものにとどまるものではない。これまで概観してきたように、「責任説」が租税逋脱犯の一般刑法犯への純化をめざすものである以上、一般刑法に適用されるべき諸原則が全て適用されなければならないのは当然といえよう。

つまり、租税処罰法の一般刑事法化ということは、故意論の領域においてのみ問題となるのではなく、構成要件論に始まって犯罪の成立要件の全部にわたって問題となり、更には量刑論にまで影響してくるものなのである。従って、罪刑法定主義という近代刑法の大原則は当然に適用され、構成要件の保障機能を重視した構成要件の定型化なども論じられなければならないのである。

更に進んで、租税逋脱犯の一般刑法犯化を理由に租税刑法の一般刑事法化を唱える以上は、刑事手続法の分野でもそのことが実現されなければならない。すでに租税逋脱犯における訴因の問題などが論じられているが、何よりも刑事訴訟法上の大原則である「疑わしきは罰せず」(注9)「疑わしきは被告人の利益に」という鉄則が、事実認定上の問題等としても強調される必要があろう。

このように近代責任主義の理念は、租税刑事法の全部にわたって貫徹されなければならない。そうすることによってのみ、初めて「被告人の人権擁護のため」(注10)の思想と評価しうるのである。

(注1)美濃部達吉「行政刑法概論」序文二頁。

(注2)同書一八頁。

(注3)同書一九頁。

(注4)田中二郎「新版・行政法(上)・全訂第一版」一七一頁。同旨、同「行政法総論」四〇五頁以下。

(注5)田中・前掲「行政法」一七五頁。

(注6)美濃部・前掲書一七〇頁以下。

(注7)板倉宏「租税刑法の基本原理」八五頁。

(注8)同書一一一頁。

(注9)松沢智・井上弘通「租税実体法と処罰法」二七頁。

(注10)同書二〇頁。

三、租税逋脱犯成立要件の個別的検討

1 構成要件について

(一)罪刑法定主義

罪刑法定主義は近代刑法の基本原則である。構成要件の保障的機能に着眼するとき、その定型性ということが重視されなければならない。「偽りその他不正の行為」の解釈等をめぐって極めて重要な点である。

(二)逋脱犯の構成要件の基本構造

逋脱犯の構成要件は、

<1> 納税義務の存在

<2> 「偽りその他不正の行為」の存在

<3> 逋脱の結果の存在

<4> <2>と<3>の間の因果関係の存在

から構成される。(注1)

(三)納税義務の存在

納税義務の存在を基礎づけるものは、「一定の課税要件に基づき算定される所得の存在」ということである。(注2)しかして、所得とは「一定の期間内に集積された収益と損費との差引計算によって生れた来るもの」であり、「その所得形成に参与すべき個々の収益および損費」の集積である。そして「所得の形成に参与すべき収益および損失は何かというと、それは、その期間内に発生したすべての収益および損費を指すのではない。即ち、その期間内に発生した収益および損費のすべてが、或いは所得税法上の収入金額および必要経費として、或いは法人税法上の益金および損金として、所得算定の基礎となるわけではない。ただ、或る種の収益又は損費のみが、税法上、収入金額もしくは益金として、又は必要経費もしくは損金として、所得の形成に参与するに過ぎないのである。従って、所得税および法人税の逋脱犯の構成要件を論ずるに当っては、当該税法上、如何なる収益が収入金額もしくは益金と認められ、又如何なる損費が必要経費もしくは損金と認められるべきかが問題とされなければならない」ということである。(注3)

ここで重要なことは、納税義務の存在ということが構成要件要素なのであるから、「一定の期間内に発生した」ところの「益金性のある個々の収益の存在」および「損金性のある個々の損費の存在」自体は構成要件に該当する事実だということである。(注4)

(四)「偽りその他不正の行為」の存在

「偽りその他不正の行為」とは、「『偽り』を基幹とし、これに類する納税論理に反する積極的な行為」

(注5)をいう。このような定義の妥当性は、租税逋脱犯の本質を考察することによって根拠づけることができる。

まず第一に、租税犯における逋脱犯の占める位置を考えなければならない。租税犯の類型としては、実質犯としての逋脱犯、受還付犯、不納付犯など、形式犯(秩序犯)としての単純無申告犯などが存する。(注6)これらの類型を比較考察するとき、逋脱犯の本質が、「偽りその他不正の行為」という「積極的行為」の処罰を本旨とするものであることが明らかになろう。

第二に、租税逋脱犯処罰の本質が、その反倫理的・反社会的性格に対する制裁であるということから、「偽りその他不正の行為」には自ずから厳格なしぼりがかけられるということである。「偽り」といい「不正」というもそれ自体抽象的な概念ではあるが、そこには何らかの意味で道義的な非難に値する積極的な行為を指すという趣旨が込められていることはその用語自体からも明らかであるばかりでなく、「責任説」の立場からはより一層そのことが強調されなければならない。前述した如く、「国庫説」に立った場合は、租税逋脱犯の本質を「公法上の義務違反」と解するので、何が「偽りその他不正の行為」に該当するかということはそれほど重視されない。なぜなら、「国庫説」では、行為の罪悪性が処罰されるのではなく、国家に金銭上の損失を与えたことが処罰の対象となるのであり、「納税義務者が其の義務に違反して不正に其の義務を逋脱すること」とはいっても、それは所詮「不法行為に基づく損害賠償に類するもの」(注7)でしかなく、「不正」行為概念は極めて広範囲なものと考えられている。あえてその行為概念にしぼりをかける必要はないのである。従って、「偽りその他不正の行為」の概念を拡散させ、処罰対象を拡大しておきながら、量刑のみ懲役刑の実刑を科すなどという背理(本件一審判決および本件原判決)が許されないのは、当然である。

第二に、罰刑法定主義の観点から構成要件の保障的機能が重視されなければならない。なぜなら、「租税犯の構成要件は包括的」であり、「その意味で白地刑罰法規」であって、「このような租税犯の構成要件の構造は、いわゆる目的論的解釈方法という名の下に行政上の取締目的本位の拡大・類推解釈が行なわれる余地を生み出しているのである」。(注8)即ち、「法が特に『偽りその他不正の行為』という限定された文言を用いている以上、これに厳格にしぼりをかけていかなければ構成要件の保障機能がそこなわれる」のであり(注9)、取締目的本位の拡大・類推解釈と「国庫説」とが安易な結合を図ることにより、「『国庫説』は、これまで租税逋脱犯の訴追・公判のすべての面にわたって、誤った解釈を示した。すなわち、租税逋脱犯の構成要件としての『偽りその他不正の行為』(所得税法二三八条、法人税法一五九条)の意義につき、『国庫説』は、脱税額の多寡という結果責任のみにとらわれ、過少申告ないし無申告という申告納税制度に対する挑戦と犯意との結びつきが不明確となる。また、事前の所得秘匿行為をともなわない『虚偽過少申告犯』と、行政処分の対象たるにとどまる『単純過少申告』(国税通則法六五条)との区別につき、『未必の故意論』を展開することによって、いわゆる白色申告者や帳簿備付記帳義務のない所得税納税義務者のほとんどが、恣意的にすべて犯罪人として嫌疑をかけられて、別件逮捕に利用され、“一億総犯罪人”となる危険を醸成した。」と指摘(注10)されるような事態が発生したことは厳しく批判されなければならない。

また、「実際多くの市民が税を免れる行為をしているのである--大企業の一〇分の九が税の負担を免れ、その六分の一が脱税をしている」(注11)といわれるが、そのような社会的背景のもとで特定の脱税類型を犯罪として処罰の対象とするためには、その犯罪としての特性が明確化されなければならないという実際的な必要が存する。即ち、「逋脱罪にあたるとして、処罰の対象とされる行為は、それにあたいするだけの社会的常軌を逸脱した悪質な行為であることが納得」(注12)されなければならないのである。従って、「逋脱の意思にもとづく行為を、全体的・実質的に評価しても、積極的な手段とはいえないようなものまでも、『不正の行為』に含めてしまうようなことは、妥当では」(注13)ない。

以上の観点からすれば、後記昭和四二年一一月八日最高裁大法廷判決が「不正の行為」の意義につき、「ほ脱の意図をもって、その手段として税の賦課徴収を不能若しくは著しく困難ならしめるようななんらかの偽計その他の工作」というのが「納税倫理に反する積極的な行為」ないし「社会的常軌を逸脱した悪質な行為」とほぼ同義であることは明らかであろう。

従って、「無申告」や「過少申告」自体が「偽りその他不正の行為」にあたらないとされるのは、右「不正の行為」の定義に照らして多言を用しないところである。ただ後記昭和四八年三月二〇日最高裁(三小)判決が、「所得金額をことさら過少に記載した内容虚偽の確定申告書の提出」をもって「偽りその他不正の行為」にあたると判示したことから、いわゆる「虚偽過少申告」行為が他に何ら行為を伴わなくともそれ自体において直ちに不正の行為にあたるかの如き誤解を呼んだ。しかし、右判決は、まず第一に、前記昭和四二年一一月八日最判の定義をそのまま維持していること、第二に、「かかる工作を伴わない単なる所得不申告」「単なる所得不申告の不作為」は「偽りその他不正の行為」にあたらずと判示していることから明らかなように、いずれにしても「偽計その他の工作を伴うこと」が必要であるとしていること、第三に、「真実の所得を隠蔽し、それが課税対象となることを回避するため、所得金額をことさらに過少に記載した内容虚偽の所得税確定申告書を税務署長に提出する行為」との判示部分からも明らかなように「過少申告行為」を無条件に「偽りその他不正の行為」にあたるとしているものでないことを指摘しておかねばならない。即ち、まず何よりも「偽計その他の工作を伴うこと」が必要である。更に、「ことさら」の意義としては、「当該申告によって税を逋脱せしめることの積極的な意思の存在と、更に行為者において、あえて右申告に及ぶ行為であることを要すると解すべきである(「ことさら」の意義については、刑法改正準備草案一一条、同理由書一〇四頁参照)。すなわち、故意の面においては積極的な意思とともに、行為の態様においては、客観的にみて、あえて右申告に及ぶ行為であることが外形的に明らかな場合をいうべき」(注14)である。更に、「過少申告行為」が「偽りその他不正の行為」に該当するためには、それが「真実の所得を隠蔽し、それが課税対象となることを回避するため」なされたものであることを要する。それはたんに故意の平面にとどまるものではなく、当該「過少申告行為」が客観的にみてそのように評価し得るものであることを要求しているのである。右判決が「隠蔽し」の語を用いているのも、客観的にみて「偽りその他不正の行為」と評価し得るか否かを問題にしているからである。従って「客観的にみて税を不正に免れようとする外部的付随事情を具備」していること、「外形的にみて、不正行為とみうる状況を備えている」こと(注15)を要するのも、「ことさらに」の意義の解釈からのみ生ずるものではないわけである。以上のように理解して初めて、前記最高裁大法廷判決の定義をそのまま引用している趣旨が理解できるのである。

ここでとくに指摘しておかなければならないのは、この昭和四八年三月二〇日最高裁(三小)判決の判示をどのように理解し、或いは「ことさらに」の意義をどのように解しようとも、「虚偽過少申告犯」がいかなる意味においても、「過失犯」を処罰するものであってはならないということである。後述するように、過失により益金性や損金性の認識を誤まりその結果過少申告の結果におちいったとしてもそれは本来処罰の対象とはならない。たとえ、それが「重大な過失」ないし「業務上の過失」(経理責任者や経営者なら当然知りうべきことを知らなかったなど)と目しうるものであったとしても同様である。逋脱犯は故意犯である。「偽りその他不正の行為」の外延がどのように拡張されようとも、それは絶対に「重大な過失」や「業務上の過失」をとりこむものであってはならない。かかる過失の態様・程度の重いものを処罰しようという取締目的により、故意犯として逋脱犯と非処罰類型たる過失行為とを混同することは許されない。それは立法論としてはともかく、解釈論としては断じて許容されえない。

(五)因果関係の存在

「偽りその他不正の行為」と生じた逋脱の結果との間には因果関係があることを要する。(注16)その結果、逋脱額も、実行行為たる偽りその他不正の行為と因果関係を有し(かつ、故意のある部分)に限られる。(注17)

この点については、「国庫説」の帰結である「全税額説」も同様の見解である。(注18)その限りでは所得の可分性を肯定するものであり、理論的には一貫性を欠く。

2 故意について

(一)故意の内容=認識の対象

認識した範囲に限って刑事責任を追求するのが、近代責任主義刑法の原則である。自ら申告しなければならない所得(税額)があることを認識していながら、あえて偽りその他不正の行為によって租税を免れる結果を生ずることによって、規範違反の責任があるといえるし、倫理的非難として罰則を科すことができるのである。(注19)

このように逋脱犯は故意犯であるから、犯罪として成立するためには、行為者に逋脱犯の構成要件に該当する事実の認識が必要である。(注20)しかして、租税逋脱犯の構成要件は前記1(二)記載の四つの要素から成ることから、「右逋脱犯の構成要件を組成する客観的事実の認識が成立するためには、納税義務、すなわち、その内容をなす所得の存在についての認識が必要であり、更に加えて、偽りその他不正の行為に該当する事実の認識、及び逋脱結果の発生の認識が必要」(注21)であり、もちろん因果関係の認識も必要である。

(二)納税義務の存在についての認識

前記1(三)で述べたように、納税義務の存在を基礎づけるものは、「一定の課税要件に基づき算定される所得の存在」であり、結局、それは「一定の期間内に発生した」ところの「益金性のある個々の収益の存在」及び「損金性のある個々の損費の存在」から形成されている。

従って、故意の成立を認めるためには、まず第一に、個々の収益及び損費の存在についての認識が必要である。即ち「所得形成に参与すべき個々の収益及び損費の存在を認識することによって、初めて当該期間の所得を認識することが可能なのである。」(注22)換言すれば、「逋脱税額算定の前提となるべき所得そのものが、そもそも経済的な概念として可分的な数額であり、それを構成する益金(収入すべき金額)、損金(必要経費)も、もともと個々の取引によって組成されている以上、個々の勘定科目のうち、行為者に右所得の存在することについての認識を欠き、逋脱の犯意の認められない部分があれば、たとえ行為者において、概括的な虚偽過少の申告をなしていることの認識があったとしても、その部分に限っては逋脱の犯意を欠き、逋脱所得より控除すべきである。」(注23)

第二に、いわゆる期間計算主義の原則が適用される結果、故意の成立を確定するためには、各個の収益又は損費の帰属時期に対する認識が存在することもまた必要である。(注24)

第三に、個々の収益または損費についての益金性の認識または損金性の認識が必要である。前記1(三)において述べたように、その期間内に発生した収益及び損費のすべてが税法上の収入すべき金額または必要経費となるわけではないからである。即ち、このような収益の益金性、損費の損金性は、「当該収益又は損費の発生という事実に附着する法律的価値関係」であり、「納税義務を基礎づけるところの所得の形成要素としての収益・損失の法的属性」であるから、あたかも窃盗罪における財物の他人性の如く、それ自体構成要件に属する事実の内容をなすものである。「行為者自身その収益が税法上収入金額又は益金であることを知りながら、敢えてこれを除外したものかどうかという、益金性に対する認識」「行為者自身その損費が税法上必要経費又は損金と認められていないことを知りながら敢えてこれを計上したものかどうかという、非損金性に対する認識」を問題にすることは、規範違反の責任を問う意思責任の原理からして当然である。(注25)

右の点につき、益金性及び損金性の認識の問題は刑罰法規の錯誤即ち法律の錯誤の問題であって事実の錯誤の問題ではないとする見解がある。たとえば堀田力検事は、「益金性及び損金性等に関する税法の規定は、『所得税』という構成要件要素の中味としてとり入れられているのであって、『租税を免れ』ることの禁止には、これらの税法上の規定を遵守しないことにより租税を免れることの禁止を包含するものといえよう。つまり、窃盗罪における財物の他人性に相当するのは、収入の自己に対する帰属性(帰属という事実も、非刑罰法規の解釈に関係する事実である。)なのであって、その収入のうち、どのようなものについて課税すべき収益とするという規定は、ほ脱犯の構成要件の中味としてとり込まれているのである。以上のように考えると、益金性及び損金性に関する規定も、右に述べた意味で刑罰法令であるといえよう。」とされる。(注26)しかしながら、右見解は明らかに誤っているばかりでなく、実は重大な問題を背後に潜ませている。

まず第一に、「租税を免れ」ることの禁止には、益金性及び損金性に関する税法上の規定を遵守しないことにより租税を免れることの禁止を包含するから、益金性及び損金性に関する規定も刑罰法令としている点である。ここには大変な論理の飛躍がある。「税法上の規定の不遵守」は即「犯罪」ではない。税法が逋脱犯として処罰の対象としているのは「偽りその他不正の行為により」「税を免れ」ることである。たんなる「税法上の規定の不遵守」には、過失とすら評価できない思い違いによる不遵守や、過失による(場合によっては重過失や業務上の過失と評価しうるものも含む)不遵守も含まれるのであり、それらは非犯罪類型に属するのである。過失による税法上の規定の不遵守による過少申告行為は刑事罰の対象とはならず、せいぜい行政上の制裁の対象となるのみであり、(実際の運用においては)場合によっては何らの制裁の対象ともならず、むしろそれが通例といってもよい。このように、益金性や損金性に関する税法上の規定は、直ちに刑罰法規となるものではなく、これを無条件に刑罰法規と解するのは、結局「過失」をも処罰対象とする誤った思想を背後にひそませているもである。これまた「国庫説」の悪しき残滓というべきであろう。

第二に、「収入の自己に対する帰属性」のみが非刑罰法規であり、「どのようなものについて課税すべき収益とするという規定」は刑罰法規であるとしている点である。これは窃盗罪における財物の他人性と余りに形式的・機械的に対比させたものであって当を得ない。益金や損金の概念規定のみならず、益金や損金を何びとに帰属せしめるかということについての税法上の規定も、実質所得者課税の原則の規定の例を持ち出すまでもなく、これまた極めて重要な税法上の規定であって、その間には何らの差異も見出すことはできない。両者をかように唆別して考えることは全くの恣意的な分類でしかない。右の如き見解を徹底させるならば、収入の帰属についても法律の錯誤とするほかなていこととなる。しかし、それでは「財物の他人性」との整合性に窮することになるのである。

(三)「偽りその他不正の行為」の存在についての認識

「偽りその他不正の行為」が客観的には存したとしても、それに対する認識がない場合は故意は阻却され、犯罪は成立しない。「すなわち、故意に基づく所得の隠蔽工作とはかかわりなく、故意によらず、あるいは不注意や思い違い等による収益の過少記載、又は損金の過大記載に基づく過少申告によって、客観的には税を免れる結果を生じても、それは『偽りその他不正の行為』とは結びつかないから、右不正の行為により免れた税額には含まれないものと解すべきである。たとえ行為者において、概括的な虚偽過少の申告をなしていることの認識があったとしても、その部分に限っては逋脱の犯意を欠き、逋脱所得より控除すべきである。」(注27)

なお、この点は、「概括的故意説」の立場においても同様であることは、前記1(五)において述べた。

(四)故意と過失の分水嶺

――「概括的故意説」「未必の故意論」「具体的事実の錯誤説」批判

(1)「概括的故意説」「未必の故意論」批判

前述したところから明らかなように、「客観的な所得額や逋脱額よりも少額を所得額や逋脱額であると認識していた場合には、その額についてのみ構成要件的故意を認めるべき」である。(注28)いわゆる「概括的故意説」が、個々の勘定科目についての認識は必要ではなく、また、所得の総額についての正確な認識も必要ではなく、申告額を上回る所得が存在しているとの概括的認識があれば足りるとか、秘匿した所得の総額についてのおおよその認識があれば足りるとか、いずれもかかる意味での概括的な認識があれば客観的に免れた税額全部につき逋脱犯が成立すると説くのは誤りである。行為者において「納税義務の認識がない部分について逋脱犯の故意をみとめるのは、責任主義の原則にもそぐわない悪しき意味の取締本位の結果責任思想」(注29)である。

また、逋脱犯を刑事犯として把える以上、「未必の故意」を除外する理由は見当らないであろう。しかしながら、「税法や税務会計は難解な技術性を有し、また、大量になされる個々の取引によって生ずる収入・損失を正確に認識することは事実上相当困難なことであるから、申告した所得額が、あるいは客観的な真実の所得額より少ないかも知れない、ということは、多々ありうることであるともいえる。納税義務者としては真実の申告をしたつもりでいても、所得の正確な把握が困難であるために、更正を受けることは少なくない。その納税義務者は、次の年度の申告に際して、今回の申告も、本人としては真実だとおもう額について申告をしているつもりであっても、その額はあるいは客観的には真実と異なっているかも知れないという認識を持つことはむしろ通常であろう。そうした場合にただちに逋脱の未必の故意をみとめることは早計である。逋脱の額や、逋脱という結果の発生の予見は未必的でもよいが、逋脱の未必の故意がみとめられるためには、申告以外の『偽りその他の不正行為』という逋脱行為にあたる事実---たとえば二重帳簿の作成---の認識と結びつかなければならない」というべきである。(注30)その限りにおいては、逋脱犯の特性を考慮したうえでの「未必の故意」論の適用がなされなければならない。

(2)「具体的事実の錯誤説」批判

「概括的故意」論に対して批判的立場をとりつつも、「具体的事実の錯誤」の理論によりほぼ同一の結論に到達しようとする見解がある。即ち、実際に発生した逋脱の結果と右認識との間に喰違いがあったとしても、それは同一構成要件内における具体的事実の錯誤にほかならず、行為者の認識しなかった部分を含む全部の逋脱の結果について故意が成立するという議論である。しかしながら、逋脱犯における「実際所得金額」とは犯意すなわち行為者において認識のある金額に限られる。納税義務の認識のない部分については、逋脱の結果は発生しない。また、偽りその他不正の行為の認識のなかった部分についても同様である。このような場合、「認識と結果との間に喰違いがない以上、錯誤を論ずる余地はない」し、「租税逋脱犯の本質が包括的一罪に類する性質をもつ面のあることからみても、一罪の一部の認識を前提とする錯誤論が適用されないと解する」こともできる。(注31)

(3)故意と過失の分水嶺

「概括的故意説」というも「具体的事実の錯誤説」というも、結局は、責任主義の原理に反して、非犯罪類型に属する部分をも、これらの理論を用いて犯罪類型の中にとりこもうとするものにほかならない。その部分をも犯罪の中にとりこもうとするのは、逋脱犯においては免れた逋脱の数額が重要であるとする結果責任的思考や、多くの場合においてそれらの脱税結果につき過失の認められることが多いためそれをも処罰しなければ不合理であるとの実質的考慮が働いているのではなかろうか。即ち、「概括的認識(概括的故意ではない!)」のある場合にはおおむねその部分については少なくとも過失が認められるものとし(「概括的認識」の存在を前提として注意義務違背を構成するのはいとも簡単である)、また、所得の一部についてこれを除外する等の不正行為があれば、不正の行為の存しない部分についても「何らかの意味で、税法を順守しないという反規範的態度」が推認されるものとし、これと結果責任的思考が結びついて“故意犯と過失犯の混在”の場合にも、全体を一括して故意犯として処罰しようとする衝動が働いているわけである。

本件一審判決が、

「その浅尾が措った不正処理も、結局、被告人舛井の納税に対する姿勢が影響して生じたもの」

などと述べているのは、まさしくそのような誤った論理に陥ったことの証左であろう。「架空仲介手数料の計上」についての被告人舛井の関与及びそれに関する認識と、「期末たな卸土地除外」等についてのそれとは全く異質なのであり、前者は故意行為であっても、後者はせいぜい過失行為と評価しうるに過ぎない。これら全体を一括して逋脱犯とし、重い量刑を科すなどということが許されるはずはない。

「国庫説」の立場に立ち、逋脱犯を「公法上の義務違反」と把え、過失犯をその本質と理解するのであれば、処罰類型の定型化はほとんど重視されないから、右の如き結果を招来することもさして異とするに足りないかもしれない。しかしながら、そのように処罰範囲を拡大しつつ、量刑のみ懲役刑の実刑を科すというのでは、刑事政策的にみても誤りであるし、租税正義の観念に反するものといえよう。

なお、ここで、松沢判事が「個別的認識説」の立場から「概括的認識説」を批判するにあたり、「申告額と客観的所得とに差があれば、故意がすべてに及んでいるものと推認されるという立証の問題を故意の内容に取り込んでいるに過ぎない」(注32)と述べられている点にふれておきたい。このような表現は誤解を招きかねない。せっかく、構成要件的故意の問題として厳格な意思責任原則を貫くべきであると主張しながら、これを事実認定のレベルでゆるめればよいというのであっては、一貫しない。租税逋脱法の一般刑事法への純化を唱えるのであれば、それは刑事手続法の分野においても実現されなければならず、「疑わしきは被告人の利益に」の刑事裁判の鉄則が想起されなければならない。もっとも松沢判事も「(右のような)間接事実を総合し経験則を適用し確信が得られれば、故意の内容として実際所得額を認識していると認定して差支えない」というのであるから、「合理的な疑いをいれないまでの立証」を要求されるものであろう。いずれにしても、一定の「推認」が働くことによって、犯意のないことにつき被告人側に立証責任を負担させるようなことがあってはならない。そのようなことが許容されれば、それはまさしく「刑事手続法における国庫説」でしかない。

(注1)松沢智・井上弘通「租税実体法と処罰法」九頁。河村澄夫「税法違反事件の研究」司法研究報告第四輯第八号二四頁。

(注2)松沢・井上前掲書五頁。

(注3)(注4)河村・前掲書四五~四七頁。同旨、板倉宏「租税犯における故意(中)」判例タイムズ一九四号三一頁以下。

(注5)松沢・井上・前掲四四頁。同旨、松沢智「逋脱犯の訴追・公判をめぐる諸問題」租税法研究九号五八頁。

(注6)松沢智「租税に関する犯罪」現代刑罰法体系第二巻七九頁注(7)。なお、河村・前掲書二三頁以下。

(注7)美濃部達吉「行政法概論」一七二頁。

(注8)板倉宏「租税刑法の性格(下)」判例タイムズ一八七号三八頁。

(注9)松沢前掲書九〇頁。

(注10)松沢智「租税法の基本原理」二三一頁。

(注11)(注12)(注13)板倉宏「脱税の構成要件」税経通信三四巻二号三二頁。

(注14)松沢・井上前掲書四三頁。松沢智「租税逋脱犯の法理論的構造」税経通信三六巻六号六一頁。

(注15)松沢前掲「逋脱犯の訴追・公判をめぐる諸問題」六三頁。

(注16)松沢・井上前掲書九頁。

(注17)同書一二頁。

(注18)小島建彦「直税法違反事件の研究」司法研究報告書第二四輯第二号六〇頁。堀田力「租税ほ脱犯をめぐる諸問題(四)」法曹時報二二巻一一号七七頁。

(注19)松沢・井上前掲書一二頁。

(注20)松沢・井上前掲書四六頁。河村前掲書四三頁。

(注21)松沢・井上前掲書四六頁。

(注22)河村前掲書四五頁。

(注23)松沢・井上前掲書四八頁。

(注24)河村前掲書五六頁。板倉宏「租税犯における故意(中)」判例タイムズ一九四号三二頁。

(注25)河村前掲書四六頁以下。板倉前掲「租税犯における故意(中)」三一頁以下。

(注26)堀田前掲書八二頁。

(注27)松沢・井上前掲書四八頁。

(注28)(注29)(注30)板倉宏「租税犯における故意(上)」判例タイムズ一九一号一五頁。

(注31)松沢・井上前掲書四七頁以下。

(注32)同書四七頁。

四 近代責任主義の理念と「事業主処罰論」の誤り

1 租税逋脱犯の組織的・団体的性格

「今日の社会経済生活においては、個人企業であると法人組織であるとを問わず企業組織の活動は重要な役割を果たしており、企業組織の負担する租税は、今日の租税収入の過半を占めている。今日の税法は-法人税法にかぎらず、-企業組織を規律対象として考えないわけにはいかない。」(注1)つまり、租税逋脱犯については、複数人が関与し、組織的・団体的性格を有するのが通常である。そこで、「企業組織による税法違反があった場合、企業組織そのものに対する規制措置が要求されてくるのである。」(注2)

ところでこのような「企業組織そのものに対する規制措置」への要請は、一方では、「企業組織体責任論」等のように、企業体ないし法人自体の犯罪行為能力ないし犯罪主体性を認めることにより、企業体ないし法人そのものを処罰しようとする要求となってあらわれてくる。(注3)

そして、他方では、右の要請は、「事業主処罰」の要求となってあらわれ、企業組織のなかにいる代表者ないしは事業主(個人)という特定の個人(自然人)を処罰しようとする。

2 「事業主処罰」の根拠と意義

ところで、このような組織的・団体的性格を有する犯罪う規制するにあたって、その犯罪に関係する複数人のうちから何ゆえに代表者や事業主の地位にある者が、選びぬかれて処罰の対象となるのであろうか。

これについて、美濃部博士の見解は

「営業又は其の他の事業の取締に関する行政法規に於いて、其の事業に関して従業者の為した犯則行為に付き、事業主を処罰すべきものと定めて居るのは、決して事業主をして犯則者に代はって罪責を負担せしめて居るのではない。事業主(又は其の法定代理人)は事業経営の衝に当り、其の事業に従事する集団生活の全体に対して、主裁者たり統制者たる地位に在るもので、其の統制者としての事業主は、全ての従業員をして犯則行為なからしむるやう、万全の注意を為すべき義務を負担して居る。此の義務は国家に対する公法上の義務であって、国家は事業主に対して此の注意義務を命じて居るのである。国家に対する関係に於いては、事業主のみが義務者の地位に在るもので、従業員が其の事業に関して犯則行為を為したとしても、それは唯事業主に対する関係に於いての義務違反たるに止まり、国家に対する関係に於いては義務違反でもなければ、犯罪を構成するものでもない。 犯則行為を為した者は従業員であって事業主ではないとしても、それは事業主が従業員をして犯則行為を為さしめないやうに注意し監督すべき義務を怠った結果と見なければならぬのであって、国家に対しては専ら事業主の義務違反であり、随って事業主の犯罪を構成するのである。それが犯罪たる所以は、一に注意義務の懈怠にある。注意義務の懈怠であるから、其の性質上必然に結果犯であって、故意犯ではなく、其の事業の実施に関し違法の結果の発生した場合には、それが不可抗力に基づいたことの証明せられない限り、当然に注意義務を怠ったものと推定せられ、其の義務違反に対して罪責を負担せしめらるるのである。」(傍点弁護人)

というものである。(注4)小野博士は、更に道義的倫理的要素をもりこまれ、

「自己の監督の下に在る他人の行為について責任を負うといふことは、今日では行政犯の特例であって、普通刑法には其の例がないが、我が徳川時代においては刑法そのものに於いても認められたのであり、これは或る意味において日本道義的な責任観念であるとおもふ。」

と説かれる。(注5)また、団藤博士はかつて次のように説かれた。

「事業主が自己の監督の下にある他人の行為について責任を負ふといふことは、歴史的な日本道義に合致すると同時に、新しい経済秩序の精神的紐帯の一環を為すものと認むべきである。

縁坐・連坐等の制度は取締目的を多分にもっていることはいふまでもないがしかし同時に、自己と――身分上、社会上、職務上等の――一定の関係をもっている者の間から重大な犯罪者を出したことが申訳ないといふ道義的意味の含まれていることが看取されねばならぬ。個人倫理からはそれは導かれ得ないが、共同体的倫理からはかやうなことがいはれ得るとおもふ。現行法における代罰・両罰規定――特に事業主のそれ――についても或る程度に同様のことがいはれ得るのではあるまいか。ただ封建的社会秩序におけると異り、その一定の関係が全く違った面について認められるのである。この問題は企業を生命的なものと認めるかどうかの点とも関連を有するであろう。しかしたとひ企業を生命体的なものと認めないとしても、事業主が国家に対する関係において、その企業に関して高度の責任を有することは認めねばならぬであらう。」(注6)(傍点弁護人)

これらはいずれもいわゆる事業主の両罰規定をめぐるものではあったが、今、ここで重要なことは、

<1> 犯則行為(犯罪行為)をなした者は従業員であって事業主ではないということ

<2> 事業主は事業経営の統率者たる地位にあるから、全ての従業員に対し犯則行為(犯罪行為)をさせないよう監督義務を負っていること

<3> 右の義務は事業主が国家に対する関係において負っているものであること

<4> 以上の背景には一種の「組織体責任論」「企業体責任論」が存することである。

そして、右のような事業主責任は一般に監督不行届についての過失責任と考えられている。そのように構成することによって「刑事責任の倫理的要素そして責任主義という根本原則を無視することなく、取締目的を果すことができる」(注7)と解されているのである。

3 「概括的故意説」と「具体的事実の錯誤説」による「事業主処罰」の故意犯へのすり替え・混同

ところで、このように代表者や事業主が処罰されるのは、従業員の犯則行為(犯罪行為)についての監督責任(過失責任)を本質とするものであるにもかかわらず、「概括的故意説」や「具体的事実の錯誤説」を利用することにより、これを故意犯と混同し、或いは故意犯にする替えようとする誤った議論がみられる。

「概括的故意説」を適用するものとして次のような見解がある。

「大型脱税などというものは、組織的に多数のスタッフの複雑な共犯関係で行われるのが普通です。

私は専門家ではありませんから、全税額説や、錯誤論(構成要件的符合説)などというものを本当に理解している訳ではありませんが、大体において、正確な所得額や税額を認識している場合は少い、あるいは、先程申上げたように、正確な数額のは握が困難な場合も多いでしょうし、いずれにしても税金は申告額だけ納め、それ以上は納めないということであれば、正確にいくらあるか、あるいはいくらあろうと納めないんだという意味では事実認定の問題として概括的犯意であるという場合が多いと考えてよいと思います。

ですから、むしろ、基本型としては概括的犯意として、ただ、行為者がこの部分からは脱税額は生じないとの認識を持っていたという額があれば、その部分の額は、概括的犯意ありとする場合においても犯則額から除外していく、そういうことでよろしかろうと、要は事実認定の問題だと考えている訳でございます。」(注8)(傍点弁護人)

これは、事業主に「概括的認識」あれば、企業組織体の他の構成員の逋脱行為についても全て故意責任を肯定するというものである。しかしながら、「いずれにしても税金は申告額だけ納め、それ以上は納めないということであれば、正確にいくらあるか、あるいはいくらあろうと納めないんだという意味では事実認定の問題として概括的犯意である」というのは、余りに乱暴な議論であり、これではいかなる「過少申告」もひとたまりもなかろう。

次に、「具体的事実の錯誤説」を「共犯と錯誤」の問題として適用するものとして次のような見解がある。「ほ脱犯の実態としては、法人の代表者ないし個人事業主の命を受けて、経理担当者をはじめとするかなりの数の従業者が、事前の不正行為を分担する例が多いように見受けられる。ところが、個々の不正行為分担者は、特段の悪質性が認められない限りは訴追されないのが通例のようであり、そして、訴因においても、一般に、これらの者と共謀したという事実は掲げられないようである。そこで、行為者として訴追された法人の代表者又は個人事業主が、不正の行為の認識、ほ脱結果の認識などを争う場合(代表者や個人事業者は、部下の行なった個々の行為や、秘匿した所得の内訳などについては、認識がないことが多いといえるであろう。)において、代表者や個人事業主だけの供述によってことを判断しようとする傾向が見られないわけではない。ところで、共犯者(従業者)が、ほ脱犯という単一の構成要件内において実行行為をしたときは、他の共犯者(代表者、個人事業主)が、その行為と結果、すなわち、不正の行為の存在とそれにより免れた部分の税額の存在について全く認識がなくとも、故意の責任を阻却しないことはいうまでもないのである。」(注九)(傍点弁護人)

これは、事業主(代表者)に「全く認識がなくとも」故意の成立を認めるという点では、右「概括的故意説」よりはるかに大胆な議論である。しかしながら、「訴因においても、一般に、これらの者と共謀したという事実は掲げられない」のに、一体いかなる根拠と理由により共犯者としての責任を事業主(代表者)が負わねばならぬのであろうか。「具体的事実の錯誤説」の当否はさておくとしても、「共犯と錯誤」の理論により共犯者(従業者)の実行行為についても事業主(代表者)が責任を負うためには、少なくとも共謀の事実が訴因として揚げられなければならない。訴因としては、事業主の単独犯として構成しながら、その実、審理の実態においては共犯として他者の行為をも責任にとりこまれるなどということがとうてい許されるはずはない。しかも、右見解は、「経理担当者をはじめとするかなりの数の従業者が、事前の不正行為を分担する例が多い」というのであから、通謀の相手方たる共犯者(従業者)には多数人か想定されているのであり、それら多数の者との通謀が全て“隠れたる訴因”としていつ何時浮かびあがってくるやもしれぬなどというのであっては、不告不理の原則からいっても、とうてい容認できるものではない。従業者との通謀の事実が訴因として掲げられぬまま事業主が処罰されるとすれば、それは文字通りの連坐制である。

結局、このような見解がまかりとおるのは、事業主の監督責任の追及という取締目的から、事業主の過失を故意犯とすり替え・混同し、つまるところ「団体責任論」または「転嫁責任論」ないし「縁坐・連坐」性を肯定するものである。

繰り返し述べるように、本件一審判決における

「その浅尾が措った不正処理も、結局、被告人舛井の納税に対する姿勢が影響して生じたもの」

との判示は、本件の特質を象徴的に物語るものであり、「監督責任論」「団体責任論」にほかならないのである。

4 個人責任原理の貫徹

このような誤った議論の生まれる背景には、租税逋脱犯の本質についての洞察が未だ不充分なため、さまざまな理論的混乱が生じ、逋脱犯を故意犯として構成しながら、いつの間にか「国庫説」に回帰するという事象が存する。その混乱が、取締目的の便宜という政策論により、一層拍車がかけられているのである。

「個々の不正行為分担者は、特段の悪質性が認められない限りは訴追されないのが通例」だとしても、だからといって事業主が“代表として”全従業員の刑事責任を全て背負いこむなどということが許されるはずはない。近代刑法の個人責任の原理、刑罰の個別的一身専属性という原則からは、あくまで被告人に帰属せしむべき故意行為の限度で、その刑事責任を肯定すべきである。「なお、従業者の違反行為のあったばあいには、法人じたいに科料を過すとともに、代表者等の法人の機関―正確には法人の業務を執行する役員―の注意監督義務懈怠についての刑事責任を追求するのが立法論として妥当である」(注10)というのも、解釈論としては「団体責任論」を否定する前提に立っているわけである。

また、実際的にみても、事業者(代表者)と経理担当者では経理知識等においても相当の差があり、これを個別的に検討するのが妥当である(益金性及び非損金性の認識について論じられる河村判事が「これを個別的に決するの外はない」(注11)とされているのも同様の趣旨であろう)。

これを本件に即していえば、被告人舛井に結びつけることの出来る「偽りその他不正の行為」(故意行為)は、「架空仲介手数料の計上」ということであり、「売却損の当期への遡及」という経理処理等については、これを浅尾や細川に結びつけることは出来ても被告人舛井に帰属せしめることはできないのである。被告人舛井に帰属せしめうるのはかかる経理処理についての監督責任のみである。然るに、本件一審判決や原判決は、これらをことごとく被告人舛井に帰属せしめ、結局において「団体責任論」の誤ちに陥っているのである。

(注1)(注2)板倉宏「租税刑法の基本的性格」一七五頁。

(注3)藤木英雄「企業体の犯罪と刑事政策」刑事政策講座三巻二〇一頁以下。同「法人と刑法」研修三〇七号一二頁以下。板倉宏「企業犯罪の理論と現実」二〇頁以下。

(注4)美濃部達吉「行政刑法概論」二九頁以下。

(注5)小野清一郎法協六〇巻六号一五七三頁以下。

(注6)団藤重光「いわゆる代罰・両罰規定に関する一考察」法律時報一六巻一二号一八頁以下。

(注7)板倉前掲書一八五頁。

(注8)大和田常裕「犯罪調査をめぐる諸問題」租税法研究九号四四頁。

(注9)堀田力「租税ほ脱犯をめぐる諸問題(四)」法曹時報二二巻一一号八七頁。

(注10)板倉宏前掲書二〇七頁。

(注11)河村澄夫「税法違反事件の研究」司法研究報告第四輯第八号五〇頁。

5 量刑の基本理念(注1)

「国庫説」から「責任説」への転換に伴い、「定額財産刑主義」から「自由刑主義」へ、「処罰寛大主義」から「処罰励行主義」への移行がなされたことについては、すでに述べた。

しかしながら、「責任説」はたんなる重罰主義ではなく、厳罰を自己目的化しているのでもない。それは意思責任の原理を貫徹することにより罪刑の均衡をはかろうとするものである。従って、逋脱犯の量刑にあたっては、その構成要件の核心である「偽りその他不正の行為」についての不正の態様・程度、被告人の関与の態様・程度及びその認識等が量刑事情の中心となろう。

また、すでに繰り返し述べたように、「国庫説」の立場から処罰範囲を拡張しておきながら、量刑のみ懲役刑の実刑を科すというようなことがあってはならない。(注2)

(注1)松沢智「租税に関する犯罪」現代刑罰法体系二巻九七頁。

(注2)同「租税法の基本原理」二三八頁。

第二章 判例

一、最高裁判所の判例

1 昭和二四年七月九日最高裁判所第二小法廷判決(刑集三巻八号一二一三頁)

右判決は、

「而して現行法の下においても不申告そのものを犯罪とする明文規定はないのみならず不申告を犯罪とする趣旨は現行法上何処にも現われていないのである。現行法第六九条第一項は詐偽その他不正の行為によって所得税を免れた行為を処罰しているがそれは詐偽その他不正の手段が積極的に行われた場合に限るのである。それ故もし詐偽その他の不正行為を用いて所得を秘し無申告で所得税を免れた者はもとより右規定の適用を受けて処罰を免れないのであるが、詐偽その他の不正行為を伴わないいわゆる単純不申告の場合にはこれを処罰することはできないのである。なる程現行所得税法は旧法と異り申告納税制度を採用し納税義務者の申告を所得税額決定の基礎とする建前をとっていることは所論のとおりである。しかし、それだからと言って不申告という消極的な行為をもっていわゆる『不正の行為』概念のうちに包含させようとする所論の見解は到底これを是認することはできないのである。もし単純不申告による所得税の逋脱行為を処罰する実際上の必要があるならばそれは立法によって解決すべきであ」る。

と判示し、法人税法と同様の規定を有する所得税法の逋脱罪の構成要件である「偽りその他不正の行為」につき、それは偽りその他不正の手段が積極的に行われた場合に限るものとした。前記第一章三1(四)において詳述したところに照らし首肯しうるところである。

2 昭和三八年二月一二日最高裁判所第三小法廷判決(刑集一七巻三号一八三頁)

右判決は、

「所得税法六九条一項によって『詐偽その他不正の行為』により所得税を免れた行為が処罰されるのは、詐偽その他不正の手段が積極的に行われた場合に限るのであって、たとえ所得税逋脱の意思によってなされた場合においても、単に確定申告書を提出しなかったという消極的な行為だけでは、右条項にいわゆる『詐偽その他不正の行為』にあたるものということはできない。」

と判示したものであり、前記1の判例と同旨である。

3 昭和三八年四月九日最高裁判所第三小法廷判決(刑集一七巻三号二〇一頁)

右判決は、

「『詐偽その他不正の行為』により所得税を免れた行為が処罰されるのは、詐偽その他不正の手段が積極的に行われた場合に限り、かかる行為を伴わないいわゆる単純不申告の場合にはこれを処罰することはできない旨判示したことは所論のとおりである。」

と判示したものであり、物品税につき、「偽りその他不正の行為」の定義に関し前記1、2の判例の趣旨を確認したものである。

4 昭和四二年一一月八日最高裁判所大法廷判決(刑集二一巻九号一一九七頁)

右判決は、

「所論所得税、物品税の逋脱罪の構成要件である詐偽その他不正の行為とは、逋脱の意図をもって、その手段として税の賦課徴収を不能もしくは著しく困難ならしめるようななんらかの偽計その他の工作を行うことをいうものと解するのを相当する。所論引用の判例が不申告以外に詐偽その他不正の手段が積極的に行なわれることが必要であるとしているのは、単に申告をしないというだけでなく、そのほかに、右のようななんらかの偽計その他の工作が行なわれることを必要とするという趣旨を判示したものと解すべきである」

と判示し、「偽りその他不正の行為」にあたるとするためには、不正の手段が積極的に行なわれることが必要であることを確認するとともに、右「不正の行為」につき「逋脱の意図をもって、その手段として税の賦課徴収を不能もしくは著しく困難ならしめるようななんらかの偽計その他の工作を行なうことをいう」ものとして、より、具体的に定義した。

また、右判決が、

「原判決が、その理由の中で、『物品税を逋脱する目的で、ことさら、物品を製造場から移出してこれを販売した事実を全く正規の帳簿に記載しないで、その実態を不明にする消極的な不正行為も、その実体においては、正規の帳簿にことさら虚偽の記載をした最も極端な場合に当り、又その結果においては、少なくとも正規の帳簿を破棄した場合と少しも変りがないのであるから、また右にいう詐偽その他の不正の行為に当るものと解するのが相当である。』と判示している部分をみると、その表現は措辞妥当を欠くところがあって所論のような誤解を招くおそれがないでもないが、その全判文を通読すれば、原判決は、単に正規の帳簿への不記載という不作為をもって直ちに詐偽その他不正の行為にあたるとしたものではなく、被告人桜木浩一が、物品税を逋脱する目的で、物品移出の事実を別途手帳にメモしてこれを保管しながら、税務官吏の検査に供すべき正規の帳簿にことさらに記載しなかったこと、他に右事実を記載した帳簿もなく、納品複写簿、納品受領書綴または納品書綴によっても右事実がほとんど不明な状況になっていたことなどの事実関係に照らし、逋脱の意図をもって、その手段として税の徴収を著しく困難にするような工作を行なったことが認められるという意味で、右判例にいう積極的な不正手段に当たると判断した趣旨と解せられる。」

と「原判決の措辞」を批判しているところからも明らかなように、概念としては、「消極的な不正行為」は「偽りその他不正の行為」にあたらず、また、たんなる「不作為」のみでは「偽りその他不正の行為」にあたらないとしているものと解することができる。その他、右判例の意義については前記第一章三1(四)において述べたとおりである。

5 昭和四八年三月二〇日最高裁判所第三小法廷(刑集二七巻二号一三八頁)

右判決は、

「所論引用の当裁判所昭和四二年一一月八日大法廷判決(刑集二一巻九号一一九七頁)は、『所論所得税、物品税の逋脱罪の構成要件である詐偽その他不正の行為とは、逋脱の意図をもって、その手段として税の賦課徴収を不能もしくは著しく困難ならしめるようななんらかの偽計その他の工作を行なうことをいうものと解するのを相当とする』とし、したがって、かかる工作を伴わない単なる所得不申告は、右『不正の行為』にあたらない旨判示しているところ、真実の所得を隠蔽し、それが課税対象となることを回避するため、所得金額をことさらに過少に記載した内容虚偽の所得税確定申告書を税務署長に提出する行為(以下、これを過少申告行為という。)自体、単なる所得不申告の不作為にとどまるものではなく(当裁判所昭和二五年(あ)第九三一号同二六年三月二三日第二小法廷判決・裁判集刑事四二号登載参照)、右大法廷判決の判示する『詐偽その他不正の行為』にあたるものと解すべきである。」

と判示し、「偽りその他不正の行為」の意義については前記4の最高裁判所大法廷判決の解釈に従うべきものとした。即ち、この判決は、

<1> 前記4判決の定義を前提とし、「偽りその他不正の行為」といいうるためには「なんらかの偽計その他の工作」が必要であるとし、

<2> 「かかる工作を伴わない単なる所得不申告」「単なる所得不申告の不作為」との判示から明らかなように、たんなる「不作為」は「偽りその他不正の行為」にあたらず、いずれにしても「偽計その他の工作を伴うこと」が必要であり、

<3> 従って、「内容虚偽の確定申告書を提出する行為」自体を「偽りその他不正の行為」といいうるためには、それが「真実の所得を隠蔽し、それが課税対象となることを回避するため」のものであって、かつ

「所得金額をことさらに過少に記載した」ものであることを要する

との趣旨を明らかにしている。従って、前記第一章三-(四)において述べたように、「偽りその他不正の行為」といいうるためには、いずれにしても「偽計その他の工作を伴うこと」は必要であり、「客観的・外形的にみて税を不正に免れようとする外部的附随事情」、「客観的・外形的にみて不正行為とみられる要素」がこれに加えて必要である。また行為者の意思としては「税を逋脱せしめることの積極的な意思の存在」が要求される。

なお、本判決の解釈については後記二4の高裁判例が存するほか、昭和五五年二月二九日東京地方裁判所判決(判例タイムズ四二六号二〇九頁)があり、右に述べたところと同旨の解釈を明らかにしている。

二、高等裁判所の判例

1 昭和二五年一二月二五日福岡高等裁判所宮崎支部判例(税務訴訟資料一三号一七頁)

右判決は、

「所論の燃料取扱手数料ほか三件の収入金十五万千二百三十二円は、その性質自体原判決に説示した通り会社に対する株主の出資金に類似し、これを会社の益金に計上すべきものと即断することができないものであるばかりではなく、経理に精通しない被告人において、右収入金を会社に対する株主の出資金であると信じて、これを会社の益金に計上しなかった消息をうかがうことができるから、原審が被告人において脱税の犯意の証明が十分でないとして、無罪の言渡しをしたのは相当であって所論のような事実の誤認がないから、論旨は採用しがたい。」

旨判示したものであり、被告人が「経理に精通しない」結果、「益金性の認識」を欠いた場合については犯意を阻却するとの法理を明らかにしたものである。この判示からも明らかなように、益金性や非損金性の認識は、行為者の有する経理知識など当該具体的事案に即して具体的・個別的に判断すべきである。(前記第一章四4参照)

2 昭和二六年四月二八日大阪高等裁判所判決(税務訴訟資料一八号一三〇頁)

右判決は、

「法律の不知が犯意の成立を妨げないことは勿論であるが脱税犯は固より故意犯であるからその成立には毎に不当に税金を逃れようとする意思のあることを必要とし、又課税の対象たる所得の範囲についてのみ、犯罪は成立する。而して所得税法(昭和二二年法律第二七号)第九条第二項によると事業等所得の計算上損失があるときはこれを山林所得及び譲渡所得以外の所得金額から差し引いて計算すことに

なっているから実際に営業上の損失である場合には該損失部分は課税の対象にならないものといわねばならない。従って本件の田中亀太郎に対して支払を免除した一七一万円余の債権額について被告人が営業上の損失であると誤信していたとすれば法律の不知というよりも寧ろ事実に関する錯誤によって犯意を阻却する場合であると見るのが相当である」

旨判示したものであり、逋脱犯の成立には「毎に不当に税金を免れようとする意思のあること」を必要とし、また「課税の対象たる所得の範囲についてのみ逋脱犯が成立する」との法理を明らかにしたものである(この後段については、犯意の有無にかかわりなく、「課税要件」の問題として客観的に納税義務の存否の問題である)。また、「支払を免除した債権額について被告人が営業上の損失であると誤信していたとすれば、法律の不知というよりもむしろ事実に関する錯誤によって犯意を阻却する」むね判示した部分は、「非損金性の認識」についての法理を明らかにしたものである。

3 昭和三五年三月一七日名古屋高等裁判所金沢支部判決(税務訴訟資料二八号三六五頁)

右判決は、

「原審並びに当審証拠調の全結果を綜合すれば、(一)前掲各債務者等は、いずれも昭和二十五年度中に営業を停止し、殆ど破産に近い状態に立至ったものであること、(二)代金回収の困難者が当時より相当程度に予見されたこと、(三)その後今日に至るも該債権中その一部の弁済を受けたものすらなく、現在、全く回収不能の状態にあること、(四)被告人は税法上の知識に乏しく所謂『欠損』を認定する標準について、明確な認識を持っていなかったことを看取し得べく、以上の事実よりこれを観れば、被告人は所得があることを知りながら税金を逋脱する意図の下に、故意に申告を懈怠したものと言うよりは、寧ろ税理事務に不案内であった結果、回収困難の売掛代金を同年度内に確定した『欠損』であると思惟し、同年度の所得として申告すべきものがないと誤解した結果所得の申告をなさなかったに外ならないと認めるのを相当とする。尤も被告人は平素より架空名義で貯金をし配当を受け又は取引の相手方と通牒の上、或取引を記帳しなかったり、極めて芳しからざる行為に及んでいたことを証拠に依って窺知し得ない訳でないが、これ等の行為と本件不申告の間には、手段、結果の関係の存在は認められず、また、被告人は本件摘発後取調官より帳簿の提出を求められた際捜査に対し非協力的な態度を示したことを認め得ない訳でないが、被疑者の立場に置かれた者の心理として、必ずしもこれを強くとがむべきでなく、これあるの故を以て被告人に租税逋脱の犯意があったものと即断することを得ない。そうして見れば、被告人の本件所得税法違反の所為は犯意の証明が不十分であって結局本件所得税法違反の公訴事実は犯罪の証明がないことに帰着する」

旨判示したものであり、「回収困難な売掛債権を確定した欠損であると思料し、所得皆無と誤解した結果、所得の申告をしなかった」場合につき、犯意を阻却するとの「非損金性の理論」に関する法理を明らかにしたものである。

4 昭和五三年八月三〇日東京高等裁判所判決(税務訴訟資料一一一号六三八頁)

右判決は、

「当裁判所は、法人税法一五九条にいう『不正の行為』の意義に関しては、所論の最高裁判所昭和四二年一一月八日大法廷判決(刑集二一・九・一一九七)の判断に従うべきものと解する」

「不正の行為の態様は、帳簿の備付状況、経理組織の状況いかんと相関関係にあってまさ千差万別であるから、本件においては、帳簿類が整備されていないという被告会社の経理状況をふまえて不正の行為に該当するか否かを判断することはむしろ当然のことである。また原判決を全体としてみれば、本件においては無申告の事実のみを把えてこれを不正の行為であると認定したものではなく、帳簿が整備されていないという経理状況のもとでの無記名定期預金の設定、他人名義の土地取得、無申告行為を全体として把えていることが明らかである。なお、原判決は『仮名ないし無記名預金の設定行為、他人名義による資産の取得行為などはこれ自体、所得を隠ぺいし所得金額の捕捉を困難ならしめるものであって、原則として(不正の行為)に当るものと解する』と説示しているが、右説示は、その前の部分とあわせ読むと逋脱の意図の存在を前提として右のように説示していることが明らかであって、いかなる場合でも右各行為自体が当然に不正の行為に該るとしているのではない。当裁判所も右説示を指示しうるのである。」

と判示したものであり、「偽りその他不正の行為」の意義については、前記一5の判例以降も前記一4の大法廷判決の示した定義によるべきことを明らかにしている。また、「帳簿未整理という経理状況のもとで」「無記名定期預金を設定」するなどという「偽計その他の工作」の存在を必要とする旨判示しており、かつ「逋脱の意図」の存在を要求している。

5 昭和五四年三月一九日東京高等裁判所判決(高刑集三二巻一号四四頁)

右判決は、

「故意に所得を隠匿する行為とは無関係に生じた収入の過少記載又は経費の過大記載によって生じた所得の過少申告分をも包含する趣旨に解すべきではない。従って、右のような所得の隠匿行為とは無関係に生じた誤記、誤算又は不注意や思い違い等に基づく過少申告によって免れた所得税額は、所得税法二三八条にいう『偽りその他不正の行為』により免れた所得税額には含まれないと解するのが相当である。」

と判示したものであり、「誤記、誤算又は不注意や思い違い等に基づく過少申告」は「偽りその他不正の行為」にはあたらず、またかかる「不正の行為」と因果関係の存しない脱税額については、逋脱税額から除かれることを明らかにしたものである。

ちなみに、東京地方裁判所昭和五三年五月二九日判決(判例タイムズ三八三号一五九頁)は、

「隠蔽工作とは明らかに無関係に生じた計算誤謬や思い違いによる収入の記載漏れ等によって生じた、税の過少申告の部分は、偽り、不正の行為による逋脱の故意の対象外といえるから、この部分については逋脱所得を構成しないといわねばならない。

また、それは所得金額をことさらに過少に記載した内容虚偽の確定申告書を所轄税務署に提出するものともいえない」

旨判示しており、昭和五六年六月二九日東京地方裁判所判決(判例時報一〇一六号三頁)も同旨である。

また、昭和五二年九月二六日東京地方裁判所判決(税務訴訟資料一〇〇号一二三二頁)は、

「仮に、検察官の主張するように、資本的支出として固定資産の取得価格に算出されるべきであるとしても、叙上のように、本件の如き程度の駐車場造成費については、それが不動産収入の必要経費となりえないか否かは税法上一般人において、直ちに容易に判明できるものではなく、そのうえ、被告人において、本係争年分の駐車料収入金額が九万五、九〇〇円程度では、前掲支出した金額との対比において、支出金額のほうが著しく多額であり、しかも、貸駐車場として絶えず整備しておくためには、三年毎にまた砂利を敷く必要があると考えていたのであるから、従って、所得は生じないと信じたとしても決して無理からぬことといわねばならず、よって、被告人において、右につき信じたことの相当の理由があると認められるので、結局、逋脱の犯意を欠き責任がない。」

旨判示している。

第三章 期末たな卸土地の除外

一、原判決の判示と構成

原判決は、以下のとおり、「偽りその他不正の行為」に関与せず、また逋脱の故意を有しない被告人に、その経営責任を追求するの余り、過失と故意をすりかえ、あえて逋脱犯の刑責を認めたものであり、判例に違反し、またこれを破棄しなければ著しく正義に反する法令違反・事実誤認がある。

1 原判決の判示

(一)「被告会社の経理部次長であって浅尾明伸は、昭和五三年三月中旬ころ、被告会社の当期における利益を試算したところ、三億五〇〇〇万円ないし三億六〇〇〇万円の利益が生ずる見込みであったので、不良在庫

や被告人に対する仮払金を整理するなどして、利益の減縮を図ろうと考え、その旨を細川や被告人に相談し、その了承を得た。」

(二)「そこで、浅尾は、後記たな卸資産の売却損や架空手数料を計上したり、これを昭和五三年五月三一日麻布税務署長に提出する前に、浅尾は、被告人に対し、その記載内容を説明し、かつ、右申告書をもって確定申告することの承認も得た」(原判決書三丁)

(三)「被告会社では、昭和四八年ころ、原判示グランツ榛名の土地(その帳簿価額八一六八万一八七五円)を購入し、これを別荘地として売り出したが、がけや沢地になっている不良土地も含まれていたうえ、不景気の影響もあって買手がなく、当期末迄売却できないでいた。更に、昭和四九年初めころ、分譲地として転売する目的で取得した原判示第四京葉台の土地(その帳簿価額四三三四万〇四七二円)も、建築許可が得られなかったため、宅地として造成できず、これも当期末迄売却できないでいた。」(同四丁裏)

(四)「浅尾は、本件確定申告に先立ち、被告会社の当期における利益を減縮する手段として、前記各土地(以下「本件土地」という)を期中に売却したこととし、その売却損を計上しようと考え、そのことを細川を通じて被告人に相談したところ、被告人は、これを了承して、本件土地の売却処分を浅尾らに一任した。」

(同五丁表)

(五)そこで、浅尾と細川とは、翌事業年度の昭和五三年四月下旬ころ、日本観光サービス株式会社代表取締役村上恒雄に対し、本件土地を二〇〇〇万円で購入して欲しい旨申し入れて種々交渉した。その結果、被告会社と日本観光サービス株式会社との間で、一部の土地を除いては後日被告会社で買い戻すことを条件に、本件土地を代金二〇〇〇万円で日本観光サービス株式会社に売却する旨の売買契約を締結した。そして、浅尾らは、右契約が当期中に成立したかのように仮装するため、村上に依頼して、その契約成立の日を昭和五三年三月三一日とし、その代金も同日中に支払われたこととするため、同会社振出の手形の振出日も同日付にしてもらった。」(五丁表裏)

(六)「被告会社では、右一連の手続を経た後、本件土地を当期中に代金二〇〇〇万円で売却したものとして、その売却損一億〇五〇二万二三四七円を当期の損金に計上して、その所得金額を算出した。」(五丁裏)

旨各事実を認定したうえ、

「被告人は、被告会社の当期における確定申告をするに際し、期末たな卸土地に対する売却損の計上が損金に当らないことを十分承知のうえで損金に計上したと認められるから、被告人が逋脱の犯意を有していたものと認めるのが相当である。」(七丁表)

「当期中に低価格で売却処分がなされていない以上、当然に本件土地の評価による低下分を当期の損金に計上することはできないのであって、仮に被告人が確定申告時にそのように理解していたとしても、そのような法律の誤解により逋脱の犯意を否定する理由とすることはできないというべきである。のみならず」(八丁表裏)

「本件土地の評価損の計上について、被告人は、確定申告時には全く念頭になかったのであるから、そもそも逋脱の犯意を問題にする余地はない。」(八丁裏)

と判示して、本件たな卸資産の除外について被告人に「偽りその他不正の行為」及び逋脱の故意があったとした。しかし、原判決は、次のとおり一切「偽りその他不正の行為」に関与せず、またその認識も有しない被告人について、あえて監督責任を問うたものであって、前記、判例・法令に違反し、また重要な判示部分において、著しく矛盾ないし混乱し、ひいては証拠に反して、あるいは証拠によらず、強引に誤った事実を認定したものである。

2 原判決の構成

原判決が被告人に逋脱の犯意ありとした右の判示部分を整理すると

<1> 浅尾は「昭和五三年三月中旬ころ」不良在庫を整理して利益の減縮を図ろうと考え、被告人に相談して了承を得た。

<2> 浅尾は、「本件確定申告に先立ち」、本件土地を期中に売却したこととし、その売却損を計上しようと考え、被告人に相談した(但し時期が特定されていないため<2>の判示部分が<1>あるいは<4>と別の事実を認定したものか不明確である)。被告人は了承して売却処分を浅尾らに一任した。

<3> 五三年四月下旬ころ「浅尾と細川が」日本観光サービス株式会社に本件土地の売却を申入れて交渉した結果、二〇〇〇万円で売却する旨の売買契約が成立した。

<4> 浅尾は被告人に対して確定申告書の記載内容を説明し、確定申告の承認を得た。

ということになる。

二、原判決の具体的検討と事案の性格

本件各証拠によれば原判決の右<1>から<4>の具体的事実の内容は次のとおりである。

1 不良在庫処分についての了承及び処理の一任の時期・内容(<1><2>)

(一)被告人は「五三年三月中旬ころ」浅尾から同年三月期の日本観光の決算予想メモに基づき、報告を受けた際、浅尾から「今期は大分利益が出そうなので、不良在庫を処分したらどうでしょうか、グランツ榛名と第四京葉台を日本観光サービスに買って貰ったらどうでしょうか」との相談をうけ、これを了承し、その後の処理を浅尾及び細川に一任した。

(二)ところがこの点について、原判決の判示では、「五三年三月中旬」(<1>)と「本件確定申告に先立ち」(<2>)と二回に亘って浅尾から相談があったとしているのか、あるいは<1><2>は同一事実であるとしているのか、必ずしも明らかではない。

(三)しかし、たな卸土地の処分による損金計上の相談とそれに対する被告人の了承と処理の一任が「五三年三月中旬ころ」と「翌期の四・五月ころ」に、二度に亘り繰り返し行われたとする証拠はなく、また不自然でもある。決算予想メモの作成された三月中旬ころに浅尾から相談をうけ、その処理を一任し、その後、確定申告に先立って浅尾から右たな卸土地処分による損金が正当に計上されている旨の報告をうけたに過ぎないことは以下に述べるとおりであって、原判決には本件たな卸土地処分に関する「三月中旬」の相談・了承・処理の一任と「確定申告に先立って行われた決算の説明」との混同が見られる。

(四)証拠によれば「三月中旬ころ」浅尾から決算予想メモに基づいて報告をうけた際、同人から従前より日本観光サービスから買入希望のあった浅見コウ名義の土地を含むグランツ榛名等の不良在庫をこの機会に処分したらどうかとの相談をうけ、被告人はとくに税務的知識を持ち合わせておらず、またどちらかと言えば大

ざっぱな性格であるため、浅尾において当然に正当な会計処理がなされているものと信じ、いわばよきに計らえといった調子でこれを了承して、同人に処理を一任したこと、その後の処理(売買の交渉・契約の締結・売買日付の遡及)はもっぱら浅尾及び細川において行われたことが以下のとおり認められる。

(1)浅尾明伸(一審第五回公判)

「グランツ榛名、第四京葉台の売却損の計上ということは、どなたが考えたんですか。

私です。

売却損という、その発案について、あなたは、だれかに相談しましたか。

はい、細川に相談しました。

細川、なんと言っておったんですか。

最初は、考えてみるということだったんですけれども、あとで、じゃあ、やってもいいということで。

あなたと細川が協議して、この土地の売却の交渉、その他を進めた。

はい。

契約締結まで、あなたと細川が処理したんですか。

そうです。」

(2)細川和(一審第六回公判)

「そういう趣旨の契約を行なうというようなことは最初にだれから話が出てきたんですか。

浅尾のほうからだと思います。

時期は、いつごろですか。

五三年の三月ごろだと思います。」

「時期は、いつごろですか。

そのころじゃないかと思います………五三年の三月ごろじゃないかと思いますけれども。

舛井に対し、どんな話をしたんでしょうか。

私が直接話した記憶がないんで、ちょっとどういうふうな話し方をしたか、よくわかりません。

要するに、榛名と京葉台を売却処分したいというふうな話はしたんでしょうか。

したと思います。

………中略………

そのときに値段など全部、あなたたちに任せるというふうな話はあったんでしょうか。

以前から、よきに計らえというふうなところはありましたから、そういうことだったと思いますけれども。

任せるということだったんですか。

だと思います。

何を任せるということだったんですか。

……………

それから、結局、どうしたんでしょうか。あなたとしては。

…とにかく、不良在庫を処分するということで、日本観光サービスへ行きました。

あなたと浅尾と二人で行ったんですか。

はい、そうです。」

(3)被告人(一審第一一回公判)

「それから榛名の土地の問題なんですけれども、五三年五月ごろ榛名の土地を売るという話を聞いたようなことを述べられているんですけれども、五三年五月ころと聞いたというふうに述べられているようなんですが。

いいえ、それは五一・二年ぐらいから欲しいという話は、

欲しいという話は聞いていないんですが売るということですね。

売るというのは、三月ごろと思います。」

(五)なお、右浅尾の昭和五六年五月一七日付検面調書(三丁裏)に

「昭和五三年四月中旬ころに私は同年三月期の日本観光の決算予想メモのコピーを細川専務に渡して二億五、〇〇〇万円位の利益が出る見込みであることを報告したのです。

その際私は細川専務に

今期は大分利益が出そうなので、この際不良在庫を処分したらどうでしょうか。グランツ榛名と第四京葉台を日本観光サービスに買ってもらったらどうでしょうかと相談したのです。」

とあるのは実際には、

(1)被告人が実質的経営者ではなかったとして同人をかばうため、あくまでも当時代表取締役であった細川に対して相談したように供述していたからにほかならず、当時も被告人が実質的経営者であったことに照らせば浅尾は決算予想メモを作成して間もなく、同メモに基づき右のような報告、相談を誰よりもまず、被告人に対して行い、その処理を一任されたものと認められ、

(2)またその時期も当然右決算予想メモが作成された「三月中旬ころ」と認めるのが自然である。

(3)以上の点については原判決も同旨であり(但し、既に述べたとおり、さらに「確定申告に先立って」同様の相談が三月中旬以降、再度行われたと認める余地はない)、右検面調書の前記引用部分は明らかに事実に反する。

(六)このように本件事件の各証拠とりわけ検面調書の検討にあたって注意しなければならないのは、本件捜査段階において浅尾や細川らは被告人が刑責に問われることのないようにもっぱら当時の代表取締役細川を前面に出し、細川がまず最初に相談をうけたかの如く供述し、これがためにかえって右のような事実に反する不自然な浅尾の検面調書及びこれに続く細川・舛井の各調書が作成され、結局本件たな卸土地の処理について被告人が浅尾から相談をうけ、処理を一任したのは翌期(五三年四月一日以降)に入ってからのことであるとする一審判決の事実誤認を導いたということである。実際には被告人舛井は三月中旬頃、不良在庫の処分を浅尾に一任し、その後は確定申告に先立って同人から本件土地の売却による損金約一億が計上されている旨の簡単な説明をうけただけのことに過ぎず、この点についての捜査段階からのいわばボタンのかけ違いを、正さなければならない。

2 本件土地の売却の交渉・契約について(<3>)

(一)昭和五三年三月中旬頃、浅尾に不良在庫の処分を了承し、その後の処理を一任して以降、浅尾と細川において日本観光サービス株式会社と売却交渉し、同社との間で実際に売買契約が締結されたのは翌期に入ってのことであるが、これは浅尾らの事務処理が手間どったためである。被告人はこれらに一切関与していなかったため、売買が当期中に成立せず翌期になったことや売買の対象となった土地の範囲、その他売買契約の内容など全く知らず、ましてや浅尾らが右契約が実際には翌期に成立したのに当期中に成立したかのように仮装するためあえて契約書等の日付を遡らせて昭和五三年三月三一日とした事実は一切知らない。

(二)このように被告人が、右土地の売買交渉・契約及び契約成立日の遡及に全く関与していないことは、関係証拠により明らかであり、この点については原判決も同様に認定しているところである(一審判決も「浅尾の経理処理に、被告人舛井が気づかなかったとしても、」と敢えて判示しており、架空手数料の計上とは異り、被告人舛井の関与・認識について消極的な判断を行っている)。

3 確定申告に先立つ浅尾の説明(<4>)

(一)被告人が、本件土地が日本観光サービスに実際に売却されたことを知ったのは確定決算が出来上って、浅尾から説明をうけた時であるが、この時も浅尾は被告人に対して右売買契約の成立時期(当期か翌期かなど)とか、具体的内容、目的物件の範囲などの具体的説明は行っていない。被告人は単に本件土地の売却により約一億円の損金が計上されている旨の報告をうけ、当然右損金は正当に決算に組み入れられて処理されたものと信じ、浅尾に対して確定申告することを承認したに過ぎない。

(二)このこともまた各証拠によって明らかなところである。

(1)浅尾(第五回公判)

「グランツ榛名と、第四京葉台の日本観光サービスに関する土地売買の交渉については、舛井は関与していますか。

わたくしの知っている範囲では、関与していません。

グランツ榛名と、第四京葉台が、観光サービスに売買されたんだ。売られたんだということについて、舛井はいつ知ったんですか。

私の口から説明したのは、確定決算ができあがって、申告書の内容を説明したときに、舛井に報告しました。

舛井は、確定申告書の内容については、目を通しているんですか。通してないんですか。報告聞いただけですか。

法人税申告書の別表一ぐらいしか見ません。あとは、すらすらっと見る程度です。」

(2)被告人(第一一回公判)

「あなたは検察官に対する供述書等で、浅見さん名義の土地を日本観光サービスに売却することは諒解していたが、その他の土地も含めて売買契約をしていること、後日その他の土地も含めて売買契約をしていること、後日その他の土地部分を買戻していること等は知らなかった。土地売買について一億円の売買損が立つということは聞いたが、本当にそんなことができるのか不思議に思った。売買の内容については知らないし、関知していないと述べておりますが、その通りですか。

その通りでございます。

グランツ榛名、第四京葉台の土地について、どのような売却をすれば経理上どのようになって、税務上どのような処理をなしうるのか等という知識、或は理解等があなたにありましたか。

ええ、その時は浅見さんの土地だけ売って、そういうことができるのかなと不思議に思っておりました。後で説明を聞きまして、ああそれならそういうふうにできるんだなと、そういうふうに思いました。

浅見さん以外の土地も一括して処分したということになれば、一億円の売却損ができるんだなということは後で査察を受けてから説明を聞いてわかったと、こういうわけですか。

そうです。」

4 確定申告時の被告人の認識

(一)被告人の確定申告時における認識は、

(1) 「とにかく一億円の売却損がたつということであり、それを組み入れて決算を組めばその分だけ当然所得が少なくなり税金も少なくなるので好都合と思いましたが、そんなうまい具合にいくのかと不思議に思いました。

とにかく浅尾や小宮山税理士の話だったのでその売却の件については承知したのです。

このような訳で私は榛名の土地の売却にともなてう一億円の売却損は正当に決算に組み入れられて処理されているものと思っていました。」(五六・五・一二検面調書四丁)

(2) 「私はそのようにもともと価値のない土地の処分に関することですから所得を隠したというようなものではなく、脱税にならないと思っています。

もともと一億円の価値のないものについてそのような価値がないという処理をしたに過ぎないからです。」(五六・五・二五検面調書七丁)

という程度のものであり、

(3) そもそも売却損計上と評価損計上の区別すら認識しておらず、まして評価損計上の要件についての税務知識は全く持ち合わせていない。浅尾の説明によって漫然とたな卸土地の処分による損金の計上が正当に行われているものと信じていたに過ぎない。

(4) 従って被告人には「偽りその他不正の行為」についての認識もなく、ましてや原判決の判示するように「期末たな卸土地に対する売却損の計上が損金にあたらないことを十分承知のうえで損金に計上した」ものとは到底言えないことは明らかである。

(二) なお一審判決は、この点について「右売却損の計上が必ずしも正当な処理であるとまでは確信していたわけでもないことは、被告人舛井が、『そんなことができるのかと不思議に思った。』と供述していることからも窺われる。」(三七丁表)

としているが、被告人が不思議に思ったのは、被告人は売却された不良在庫の対象を浅見コウ名義の土地のみと考えていたために、何故一億円もの損金を計上できるのかが理解できなかったからであり、このことは、逆に被告人において右損金の計上そのものはあくまでも正当な処理であると考えていたこと、そして日本観光サービスとの売買契約の内容を全く知らなかったことを示したものにほかならない。

三、原判決の誤りと問題の所在

以上、

1 被告人舛井は当期中の「五三年三月中旬ころ」経理担当者浅尾から、この際グランツ榛名等の不良在庫の処分したらどうかとの相談をうけ、浅尾にこれを一任した。

2 その後、浅尾と細川が、日本観光サービス株式会社と交渉し、売買契約が実際に締結されたのは翌期に入ってのことであったが、被告人舛井はこれらに一切関与しておらず、売買契約の成立時期、内容、及び契約成立日の遡及の事実など一切知らない。

3 被告人舛井は、確定申告に先立って、浅尾から単に本件たな卸資産の処分による約一億円の損金が計上されているの旨の説明をうけ、漫然右損金の計上自体は正当なものと信じた(被告人は右2のたな卸土地の売買成立時期・内容及び浅尾らの日付遡及等不正経理の事実はもちろん、売却損と評価損の区別や評価損計上の要件を認識してかった)。

4 すなわち、被告人舛井は本件たな卸土地の処分による損金の計上につき、

・「偽りその他不正の行為」に関与せず従ってその認識もなく、

・右損金の計上が正当であると考えていたこと、少なくとも損金にあたらないことを知りながらあえて、これを計上した事実はないことが明らかである。

結局原判決はこのように「偽りその他不正の行為」、「不正の行為についての認識」及び「非損金性の認識」のいずれも欠いた本件事案について、あえて逋脱犯の成立を認めたものである。

5 原判決及び一審判決は、責任説を重罰主義においてのみ徹底させながら、一方被告人の「偽りその他不正の行為」への関与・加功の有無・程度及びこれに対する認識、非損金性の認識の有無などについては、

浅尾の経理処理に被告人舛井が気づかなかったとしても、経理上の具体的な処理は浅尾に一任していたことは被告人舛井の公判供述に照らしても明らかであり、その浅尾が措った不正処理も、結局、被告人舛井の納税に対する姿勢が影響して生じたものといえないではない。」(一審判決三七丁裏)

との判断に立って、むしろ「疑わしきは被告人に不利益に」事実上の監督責任または過失責任を問うたところに、その基本的な誤りがあると言わなければならない。

四、上告理由

1 第一点 判例違反

(一) 「偽りその他不正の行為」について

(1) 最高裁判所判例

イ 昭和二四年七月九日第二小法廷判決(刑集三巻八号一四三頁)は、所得税法違反事件につき

「現行法第六九条第一項は、詐偽その他不正の行為によって所得税を免れた行為を処罰しているがそれは詐偽その他不正の手段が積極的に行なわれた場合に限るのである。それ故もし詐偽その他の不正行為を用して所得を秘し無申告で所得税を免れた者はもとより右規定の適用を受けて処罰を免れないのであるが、詐偽その他の不正行為を伴わないいわゆる単純不申告の場合にはこれを処罰することはできないのである。」

旨判示し、

ロ 昭和三八年二月一二日第三小法廷判決(刑集一七巻三号一八三頁)は、所得税に関する事案であるが

「所得税法六九条一項によって「詐偽その他不正の行為」により所得税を免れた行為が処罰されるのは、詐偽その他不正の手段が積極的に行なわれた場合に限るのであって、たとえ所得税逋脱の意思によってなされた場合においても、単に確定申告書を提出しなかったという消極的な行為だけでは、右条項にいわゆる「詐偽その他不正の行為」にあたるものということはできない」

旨判示し、

ハ 昭和三八年四月九日第三小法廷判決(刑集一七巻三号二〇一頁)は、物品税法違反事件について、「昭和二四年七月九日第二小法廷判例が所得税法(昭和二五年三月法律第七一号による改正前のもの)六九条一項によって「詐偽その他不正の行為」により所得税を免れた行為が処罰されるのは、詐偽その他不正の手段が積極的に行なわれた場合に限り、かかる行為を伴わないいわゆる単純不申告の場合にはこれを処罰することはできない旨判示したことは所論のとおりである。」

旨判示し、

ニ 昭和四二年一一月八日大法廷判決(刑集二一巻九号一一九七頁、判例時報四九九号二二頁)は以上の判例について

「按ずるに、所論所得税、物品税の逋脱罪の構成要件である詐偽その他不正の行為とは、逋脱の意図をもって、その手段として税の賦課徴収を不能もしくは著しく困難ならしめるようななんらかの偽計その他のの工作を行なうことをいうものと解するのを相当する。所論引用の判例が、不申告以外に詐偽その他不正の手段が積極的に行なわれることが必要であるとしているのは、単に申告をしないというだけでなく、そのほかに、右のようななんらかの偽計その他の工作が行なわれることを必要とするという趣旨を判示したものと解すべきである。」

旨判示して、逋脱罪の成立するためには「なんらかの偽計その他の工作」が行われることを必要とするとした。

ホ その後昭和四八年三月二〇日第三小法廷判決(刑集二七巻二号一三八頁)は、

「真実の所得を隠蔽し、それが課税対象となることを回避するため、所得金額をことさらに過少に記載した内容虚偽の所得税確定申告書を税務署長に提出する行為(以下、これを過少申告行為という。)自体、単なる所得不申告の不作為にとどまるものではなく(当裁判所昭和二五年(あ)第九三一号同二六年三月二三日第二小法廷判決・裁判集刑事四二号登載参照)、右大法廷判決の判示する『詐偽その他不正の行為』にあたるものと解すべきである。」

と判示したが、右判決の説示する「真実の所得を隠蔽し、それが課税対象となることを回避するため」、「ことさらに」の意義については本上告趣意「租税逋脱犯成立要件の個別的検討」において論述したとおり、当該申告によって税を逋脱せしめる積極的意思の存在と、行為者において、あえて右申告に及ぶ行為であることが外形的に明らかな場合をいうと解され(松沢・井上「租税実体法と処罰法」四五頁)、結局、逋脱犯が成立するためにはその手段として、偽りその他反社会的反倫理的な行為が積極的に行われたことが客観的・外形的に認められることを要するとするのが、最高裁判所の一貫した判例と解される。

(2) 原判決の判例違反

原判決を具さに検討しても、本件被告人は確定申告に先立つ経理担当者の説明によって漫然と本件たな卸土地の処分による損金の計上が、正当に行われているものと信じていたに過ぎないのであるから、浅尾らの経理処理が「偽りその他不正の行為」にあたるとしても、これに関与しない被告人舛井については、せいぜい過失が認められるにとどまり、およそ被告人が逋脱の意図をもって、その手段として、偽りその他反社会的・反倫理的な行為を積極的に行ったとは評価できない。結局、原判決は客観的に「偽りその他不正の行為」と評価しうる積極的な行為及びその認識が存在しないのにもかかわらず、あえて逋脱犯の成立を認めたものであるから、右最高裁判所の判断と異る判断をして判例に違反したものである。

(二) 逋脱の故意(非損金性の認識)について

(1) 高等裁判所判例

イ 昭和二五年一二月二五日福岡高等裁判所宮崎支部判決(税務訴訟資料第一三号一七頁)は、経理に精通していないものが、収入金を、会社に対する株主の出資金であると信じた事例について

「所論の燃料取扱手数料ほか三件の収入金十五万千二百三十二円は、その性質自体原判決に説示した通り会社に対する株主の出資金に類似し、これを会社の益金に計上すべきものと即断することができないものであるばかりではなく、経理に精通しない被告人において、右収入金を会社に対する株主の出資金であると信じて、これを会社の益金に計上しなかった消息をうかがうことができるから、原審が被告人において脱税の犯意の証明が十分でないとして、無罪の言渡しをしたのは相当」

である旨判示し、

ロ 昭和二六年四月二八日大阪高等裁判所第八刑事部判決(税務訴訟資料第一八号一三〇頁)は、支払を免除した債権を営業上の損失と誤信した場合について

「支払を免除した債権額について被告人が営業上の損失であると誤信していたとすれば、法律の不知というよりも寧ろ事実に関する錯誤によって犯意を阻却する場合であると見るのが相当である。」

旨判示し、

ハ 昭和三五年三月一七日名古屋高等裁判所金沢支部第二部判決(税務訴訟資料第二八号三六五頁)は、税理事務に不案内であった結果、回収困難な売掛債権を確定した欠損であると誤解し、所得皆無と誤解した場合について、

「被告人は税法上の知識に乏しく、所謂「欠損」を認定する標準について、明確な認識を持っていなかったことを看取し得べく、以上の事実よりこれを観れば、被告人は所得があることを知りながら税金を逋脱する意図の下に、故意に申告を懈怠したものと言うよりは、寧ろ税理事務に不案内であった結果、回収困難の売掛代金を、同年度内に確定した「欠損」であると思惟し、同年度の所得として申告すべきものがないと誤解した結果所得の申告をなさなかったに外ならないと認めるを相当とする。………(中略)……そうして見れば、被告人の本件所得税法違反の所為は犯意の証明が不十分であって結局本件所得税法違反の公訴事実は犯罪の証明がないことに帰着する。」

旨判示し、

ニ さらに昭和五四年三月一九日東京高等裁判所第一刑事部判決は、所得の隠匿行為とは無関係に生じた誤記、誤算又は不注意や思い違い等に基づく過少申告について(傍点弁護人)、

「しかしながら、所得税逋脱犯の故意が、右のように具体的又は個別的な脱税の認識である必要がないというのは、免れた全税額につき全体として脱税の認識が認められれば足りるという趣旨であって、故意に所得を隠匿する行為とは無関係に生じた収入の過少記載又は経費の過大記載によって生じた所得の過少申告分をも包含する趣旨に解すべきではない。従って、右のような所得の隠匿行為とは無関係に生じた誤記、誤算又は不注意や思い違い等に基づく過少申告によって免れた所得税額は、所得税法二三八条にいう「偽りその他不正の行為」により免れた所得税額には含まれないと解するのが相当である。」

旨判示する。

(2) 判例における益金性・損金性の認識についての判断

イ 法人税の逋脱の故意が成立するためには、「偽りその他不正の行為」についての認識のほか

・その収益が法人税法上収入金額もしくは益金と認められるべきものであること(いわゆる益金性)又はその損費が法人税法上必要経費もしくは損金と認められるべきものであること(いわゆる損金性)に対する認識が必要とされること。

・とりわけ損金性に対する認識については、行為者自身その損費が税法上必要経費又は損金と認められられていないことを知りながら敢えてこれを計上したものかどうかという、非損金性に対する認識が必要であること(河村澄夫「税法違反事件の研究」四六頁以下)。

ロ さらに法人税の課税対象たる所得は、一事業年度内に発生した収益と損費によってのみ構成される(期間計算主義の原則)ので、法人税逋脱犯の故意が成立するためには、右に述べたような各収益または損費の益金性・非損金性に対する認識が存在すると同時に、その収益または損費の帰属時期に対する認識もまた必要なこと(前掲河村五六頁、横浜地裁昭和二五年五月四日・判決・税務訴訟資料第五四号一三四頁)は既に述べたとおりである(上告趣意二三頁)

ハ ところで税法は、難解であり、税法の誤解のため、経理に精通していないため(福岡高裁昭和二五年一二月二五日判決)、あるいは税理事務に不案内の結果(名古屋高裁昭和三五年三月一七日判決)税法上、益金であるものを益金でないと誤解したり、損金でないものを損金であると誤解しやすい。また損金の帰属時期について、税務当局と見解を異にしたり、誤解することも少なくない(前記横浜地裁昭二五・五・四)。

このような益金性・損金性についての誤解は、事実の錯誤ではなく、税法を正しく理解しなかったための誤解であるから刑罰法令についての法律の錯誤にすぎないという見解があるが、このような見解が誤りであることは、すでに述べたところである(上告趣意二五頁)。当該収益が益金性を有しているか、当該損費が損金性を有しているか否かは、事実に付着する法律的価値関係であって、構成要件に該当する事実の内容である。

従ってこれについての認識の欠如ないし錯誤は、刑法的評価の基準となる規範の面に関する「法律の錯誤」や「法の不知」ではなく、事実の錯誤にほかならない(前掲河村一四七頁以下、同福岡高裁二五・一二・二五、大阪高裁昭和二六年四月二八日、税務訴訟資料第一八号一三〇頁以下、東京地裁昭和五五年二月二九日・判例タイムズ四二六・二〇九、東京地裁昭和五五年一一月一〇日・判例時報九九一号一二二)。

ニ 前記各判例も、経理に精通していないため、あるいは税理事務に不案内の結果、益金性・損金性に対する認識を欠いたり、損益の帰属時期を誤解したような場合には、逋脱の故意を認めてはならないとしているのである。

(3) 原判決の判例違反

イ 前記「原判決の判示とその検討」において述べたとおり、被告人舛井は確定申告当時本件たな卸土地の処分の時期や内容も知らず、また税務知識に乏しかったため、右土地の処分による損金は正当に計上されていると信じ(「確定申告時の被告人の認識」)

また売却損と評価損の区別や評価損計上の要件についての政務知識もなく、取調中ですら「もともと一億円の価値のないものについてそのような価値がないという処理をしたに過ぎない」と考えていたのであるから、期末たな卸土地の処分による売却損の計上が当期損金にあたらないとの認識(非損金性の認識)を欠いていたことは明らかである。

ロ ところが原判決は、この点について、

「期末たな卸土地に対する売却損の計上が損金にあたらないことを十分承知のうえで損金に計上した」とか、「当期中に低価格で売却処分がなされていない以上、当然に本件土地の評価による低下分を当期の損金に計上

できないのであって、仮に被告人が確定申告時にそのように理解していたとしても、そのような法律の誤解により逋脱の犯意を否定する理由とすることはできないというべきである。」

と判示して、逋脱の故意を強引に認めたものであるから、前記判例の判断に違反することが明らかである。

原判決の右判示は、表現こそ異るものの、結局一審判決の行った「浅尾の経理処理に被告人舛井が気づかなかったとしても、経理上の具体的な処理は浅尾に一任していたことは被告人舛井の公判供述に照らしても明らかであり、その浅尾が措った不正処理も、結局、被告人舛井の納税に対する姿勢が影響して生じたものといえないではない。」との評価・判断を前提としたものであり、実質的には損金性についての認識を欠いたことの過失責任あるいは浅尾に対する監督責任を「故意」責任にすり替えたものにほかならない。

2 第二点 法令違反

原判決は、前記三「原判決の誤りと問題の所在」及び「判例違反(一)偽りその他不正の行為」において論述のとおり、被告人には単に過少に申告したというほか、客観的に「偽りその他不正の行為」と評価しうる何らの積極的な行為も存在しないにもかかわらず、逋脱犯の成立を認めたものであって、法人税法一五九条一項の解釈・適用を誤ったものであり、判決に影響を及ぼすべき法令違反があり、これを破棄しなければ著しく正義に反すると認められる。

3 第三点 事実誤認

また原判決は、前記一乃至三及び「判例違反(二)逋脱の故意について」に論述のとおり、本件たな卸土地の処分による損金の計上につき、

・偽りその他不正の行為に関与せず(不正行為の存在)、

・あくまでも右損金の計上が正当になされたものと信じ(非損金性の認識の欠缺・錯誤)、

・少なくとも損金にあたらないことを知りながら、真実の所得を隠蔽し、それが課税対象となることを回避するため、あえてこれを計上した事実はない(不正の行為の認識)

にも拘らず、偽りその他不正の行為の存在と逋脱の故意を認めたものであるから、原判決には破棄しなければ著しく正義に反する重大な事実誤認がある。

第四章 土地重課税

一、原判決の誤りと土地重課税に関する上告理由の構成

原判決は、

<1> 前記「期末たな卸土地除外」に関連し、グランツ榛名及び第四京葉台の土地の売却損金一億〇五〇二万二三七四円を逋脱土地譲渡利益金額から控除すべきであるのに、これをも逋脱利益金額に含めたこと

<2> 後記「交際費限度超過分の損金算入」に関連し、右超過分金二九七七万〇〇四八円を控除したうえ逋脱土地譲渡利益を算出すべきであるのに、それをしなかったこと

<3> 後記「貸倒れ損失の発生」に関連し、貸倒損失相当額金六五七五万四〇〇〇円を一般管理費に配賦すべきであるのに、それをしなかったこと

<4> 建売分の土地に関連して譲渡利益として計上されている金三七四三万四六五八円を逋脱土地譲渡利益金額から控除すべきであるのに、それをしなかったこと

の各点で誤っている。

ところで、右<1>乃至<3>については、「課税所得金額」の算出においてまず問題となることから、右<1>については前記第三章で、右<2>については後記第五章で、右<3>について後記第六章で、それぞれ上告理由として述べているところである。従って、ここでは繰り返しを避けることとし、これらの各点の上告理由を土地重課税についてそのまま援用することとする。

ただ右<4>については、「課税所得金額」の算定においては問題とならず、土地重課税固有の問題であるので、以下この点に関する上告理由を具体的に述べる。

二、建売り分土地について

1 原判決の判示とその初歩的誤り

原判決は、

「土地付建売住宅部分の譲渡所得に対する土地重課税については、その適用がないものと考えてこれを全く申告しなかったことが認められる。しかしながら、租税特別措置法六三条三項に規定する土地に該当しない以上、たとえ建売住宅付の土地であっても、すべて同条一項の規定が適用されるものであることは、これらの規定自体から明らかであるところ、本件建売住宅付の土地は右適用除外に該当しない土地であるから、これを譲渡して、その土地部分に対する利益を得た場合には、これに課される土地重課税を納付すべき義務のあることは蓋し当然である。しかるに、被告人は、同法の規定を誤解し、建売住宅付の土地については、土地重課税が課されないものと考え、その申告をしなかったというのであるから、それは法律の錯誤に過ぎず、それがやむを得ないとすべき特別の事情のない本件においては、逋脱の犯意を阻却するものではないというべきである。」

と判示し、建売分土地についても逋脱犯の成立を認めた。

しかしながら、原判決は、いくつかの点において初歩的な誤りをおかした。それは、まず第一に、原判決において「偽りその他不正の行為」の存在について何ら摘示されておらず、逋脱犯の構成要件の中核部分についてその存在が認められないのに、逋脱犯の成立を認めた点である。

第二に、逋脱犯の構成要件要素の全部について被告人の故意が全く認められないのに、逋脱の犯意を認めたという点である。

結局、原判決は単なる義務違背という過失を処罰しようとするものであって、その誤りは明らかである。

2 「偽りその他不正の行為」の不存在

原判決は、右判示から明らかなように、「偽りその他不正の行為」の存在について何ら摘示していない。原判決の認定した事実は、「(建売分についても)納付すべき義務があるのに、被告人は租税特別措置法の規定を誤解し、その申告をしなかった」ということのみである。これではたんなる「単純不申告」でしかなく、それがたとえ正当の理由のない不申告であり、注意義務を怠った結果であったとしても、逋脱犯を構成するものではない。「偽りその他不正の行為」の意義については前記第一章三-(四)及び第二章一において詳述したところであるが、本件ではなんらの「偽計その他の工作」も存在しないのである。(注1)

重要なことは、被告人舛井の行為としてはもちろんのこと、経理担当者である浅尾の行為としても(つまり被告会社全体としても)「偽りその他不正の行為」が存在しないということである。

百歩譲って、原判決の真意が、建売分の不申告もいわゆる「虚偽過少申告犯」にあたるという点にあったとしても、前記第二章一5の最高裁判例に照らし、なんらかの「偽計その他の工作」を伴っていることを判示し、少なくともそれが「真実の所得を隠蔽し、それが課税対象となることを回避するため、所得金額をことさらに過少に申告」したものであることを判示しなければならないはずである。然るに、原判決は、税法の規定を誤解し、納税義務がないものと誤信した結果、その申告をしなかったという事実を認定しているのみである。それは、たんなる「納付すべき義務」の違背であり、たんなる過失でしかないのである。従って本件は、そもそも「法律の錯誤」を論ずる事案ではないのである。

3 故意の不存在

(一) 「所得の発生」についての認識の不存在

原判決は、被告会社において、建売分は「土地重課税については、その適用がないものと考えた」理由につき何ら述べていない。しかし、それは、建売分の土地についてはそもそも譲渡利益が発生しておらず、その結果、納税義務がないものと考えたからなのであり、所得の発生についての認識がないわけである。従って、客観的には建売分についても譲渡益が発生していたとしても、それは「事実の錯誤」であり、いかなる説に立っても「法律の錯誤」とはいえないのである。

(二) 「偽りその他不正の行為」についての認識の不存在

前述したように、本件においてはそもそも「偽りその他不正の行為」が存在しないのであるから、それに対する被告人舛井の認識がないのも当然の結果である。

(三) 「逋脱の結果」についての認識の不存在

この点についての認識もまた認められない。

4 上告理由

(一) 第一点 判例違反

たんなる不申告をもって逋脱犯の成立を認めた点は、前記第一章一1乃至5記載のいずれの判例とも相反するものである。

また、被告人舛井が建売分については譲渡益が発生しないものと誤信した点を法律の錯誤にあたるものとして犯意を認めた点は、「課税の対象たる所得の範囲についてのみ犯罪が成立する」ものとし、「営業上の損失についての誤信」は事実の錯誤であるとした前記第二章二2記載の判例及び同二1及び3記載の判例に違反する。

(二) 第二点 法令の違反

原判決は、土地重課税について、そもそも「偽りその他不正の行為」が一切存在しないのにもかかわらず逋脱犯の成立を認め、また逋脱犯の構成要件要素たる「所得」「偽りその他不正の行為」「逋脱の結果」のいずれについても被告人に認識がないのに故意の成立を認めたものであり、法人税法百五十九条一項の解釈・適用を誤ったものである。しかも、それは本来処罰の対象とならないたんなる注意義務違反(過失)を処罰するものであり、判決に影響を及ぼすことが明らかであって、破棄しなければ著しく正義に反する。

(三) 第三点 重大な事実の誤認

原判決の前記判示によれば、建売分について土地重課税の適用がないものと誤信した理由につき根拠が示されていない。仮に、それが、譲渡益の発生を知りつつなお建売分については納税義務がないものと誤信していたとの事実認定を前提としているものであれば、重大な事実の誤認がある。

即ち、経理担当者浅尾の公判廷での証言(第一回)によれば、

「建売住宅についても申告しておりましたか。

建売住宅については、保有期間が一日という解釈で土地に対する利益は、発生しないものとして計算しておりません。」

というのであり(注2)(ちなみに浅尾は捜査段階でも同様の供述をしている)、また被告人舛井の公判廷での供述(第一回)によれば、

「建売りについてはわからない。

建売りについては土地重課は普通通常かからないと、そういうふうに我々は思っておるんですが。」というのであり、建売については保有期間が短期であるため譲渡益が発生していないというのが被告人会社における経理担当者の認識であった。被告人舛井も、そのような経理担当者らの認識を前提とし、建売分については納税義務がないとの判断に至っていたものである。

このことは不動産業界の一般的通例として、土地付建売住宅の販売については、建物部分で利益を得、土地部分では差益を取得しえないのが普通であること(土地については取引価格が客観的市場価格として形成されているため、付加価値を望めえないこと)に照らして、充分首肯しうるところである。

結局、被告人舛井は所得の発生という事実につき誤信していたものであり、それは事実の錯誤と目すべきものである。従って、この点は、判決に影響を及ぼすべき重大な事実誤認であり、原判決を破棄しなければ著しく正義に反する。

(注1)なお、この点については、本件の国税調査を担当した国税局査察官小関道也が次のように証言していることに注目すべきであろう。即ち、同証人の証言によれば、

「東京国税局長が、五七年六月二二日付で、日本観光に対して発した審査請求をすることができる旨の供述書に添付されている土地の譲渡にかかる譲渡利益明細書の表を見ますと、日本観光の建売分の土地重課税ですね。これに対して、重加算税が付加されておらないんですが、それは、あなたご存じですか。

それは承知しております。

それはどういう理由で重加算税が付加されておらないかについてご存じですか。

その建売の関係につきましては、仮装、隠蔽そういう事実はございませんでした。その、なぜ申告をしなかったか、その建売分については、会社側は利益がないからだ、そういうことで認識の違いというんですか、そういう面で重加算税を付加する決定するまでには至らないんじゃないか、それには該当しないんじゃないかという判断でやっておりません。

ないかというそういう疑問じゃなくて、ないという断定のもとに、結局重加算税は付加されていないということでしょう。

ええ、売買金額については、仮装隠蔽がなかったと。売り値について検討しましたが、それは会社側のそのとおりでございまして、あとは仕入れのほうですね。仕入れはそういう今までいろいろ述べてきたような方法でございますから、売り値に問題がなければ、仮装隠蔽ということにはあたらないと思いました。」

というのである。もちろん、重加算税を課す要件と逋脱犯の要件とが必ずしも同一であるというわけではないが、本件の場合は、いかなる意味においても不正とみうるべき行為が全く存しなかったことを、右証言は物語るものである。

(注2)この点についても、前記小関査察官が、

「なぜ申告をしないかということについて、日本観光側から理由を聞いておりますか。

ええ、それは浅尾さんに質問をしました。浅尾さんの説明では、私の会社では建物ではもうけておるけど、土地ではもうけておらない。だから土地重課税の対象にならない。そういうふうに理解して申告しなかったと、そのような説明がありました。」

と証言しているように、浅尾の供述は一貫しており、建売分については譲渡益そのものが発生していないという確固たる認識をもっていたものである。

第五章 交際費限度超過分の損金不算入

一、原判決の判示とその基本的誤り

原判決は、まず被告会社における当期の確定申告に至る経緯につき、

「(2) 被告会社の経理部次長であった浅尾明伸は、昭和五三年三月中旬ころ、被告会社の当期における利益を試算したところ、三億五〇〇〇万円ないし三億六〇〇〇万円の利益が生ずる見込みであったので、不良在庫や被告人に対する仮払金を整理するなどして、利益の減縮を図ろうと考え、その旨を細川や被告人に相談し、その了承を得た。

(3) そこで、浅尾は、後記たな卸資産の売却損や架空手数料を計上したり、交際費限度超過額で損金に算入できない支出をも損金に計上するなど、当期の利益を減縮して、法人税の確定申告書を作成したが、それには所得金額が二億一三二四万三五五三円、課税土地譲渡利益金額が一億九四三七万九〇〇〇円、その法人税額が一億二二七七万八四〇〇円とそれぞれ記載されている。これを昭和五三年五月三一日麻布税務署長に提出する前に、浅尾は被告人に対し、その記載内容を説明し、かつ、右申告書をもって確定申告することの承認も得たので、当時の代表者であった細川和に右申告書の代表者欄に署名押印してもらった。

(4) なお、被告会社では、昭和五四年六月一九日に至り、当期の法人税につき修正申告をしている。その修正申告書には、たな卸土地の売上原価を自己否認した額として一億二五二二万二三四七円、交際費限度超過額として三〇七三万二六六五円、その他の利益の自己否認額として一億五五九九万八〇〇三円をそれぞれ当期の利益に加算し、結局、被告会社の当期における所得金額が五億八四四四万〇三一三円で、これに対する法人税が二億七一二五万七二〇〇円になる旨記載されている。そして右修正申告について、被告人は顧問税理士から説明を受けている。」

旨判示し、次いで本件交際費に関連する被告人舛井の犯意を論じて、

「報告会社では、当期中に、

(1) 山東昭子参議院議員所有名義の乗用車の自賠責保険料、修理費、ガソリン代、事故示談金、同議員の議員会館に飾り付けた花代、年賀状、暑中見舞の葉書及び名刺の印刷代等合計三五一万九七七〇円を支払ったが、山東議員は被告会社の業務について直接関係していないのであるから、右支出を交際費として処理すべきものであるところ、これらについて被告人が予め経理担当者に対し、相手の名前を出さずに処理するよう指示していたので、経理担当者は、右支出を被告会社の車両経費、燃料費、印刷代及び福利厚生費にそれぞれ計上して処理した。

(2) 二子山親方に対し、外車や現金を贈ったほか、得意先に対し、将棋盤、相撲のます席券等を贈ったが、これらの諸経費合計八二六万九二九〇円は、被告会社の事業に直接関係ないものであるから、これも交際費として処理すべきものであるところ、広告宣伝費に計上処理した。

(3) 都内のホテルで酒食を提供して成績発表会や五周年記念祝賀会を催し、その費用として支出した二五六万九一〇〇円を販売雑費に計上したほか、飲食店で親睦会を催し、従業員に対し酒食を提供したが、その費用として支出した一五〇四万九八三八円を会議費に計上した。これらはいずれも酒食を伴うので、その性質上、交際費として処理すべきものである。

(4) なお、被告会社では、従前右会議費のような交際費の性質を有する費用を支出した場合、いったん当該科目に計上して処理した後、法人税の確定申告をするに当り、これらを交際費に加算して、その限度超過額を算出していたが、当期には、前記会議費は勿論のこと、その他の科目で支出した交際費の性質を有する損金についても、右のような計算を全く行わずに確定申告をした。

以上認定した事実によれば、被告人は、被告会社の当期における確定申告をするに際し、期末たな卸土地に対する売却損の計上及び交際費限度超過額が損金に当らないことを十分承知のうえで損金に計上したと認められるから、被告人が逋脱の犯意を有していたものと認めるのが相当である。」

旨判示して、交際費限度超過額の損金不算入分についても逋脱犯の成立を認めた。

しかしながら、この点についても、原判決は前記第三章「期末たな卸土地の除外」の場合と同様の誤りに陥っている。ここでも、また、まず第一に、「偽りその他不正の行為」という逋脱犯構成要件の中核部分が問題になる。即ち、経理担当者浅尾の行為として(つまり被告会社全体として)も「偽りその他不正の行為」が存在しないし、ましてや被告人舛井の行為としてはそのような行為が全く認められないのに、逋脱犯の成立が認められているのである。そして第二に、やはり逋脱犯の構成要件該当事実に対する被告人舛井の認識が問題になる。被告人舛井には右事実全部につき認識がないのに、原判決は故意の成立を認めているのである。

二、「偽りその他不正の行為」の不存在

1 全体の構造

まず、被告会社における当期の確定申告に至る経緯につき原判決の事実摘示を整理・要約してみよう。

<1> 「浅尾は、昭和五三年三月中旬ころ、『不良在庫や被告人に対する仮払金を整理する』などして利益の減縮を図るべく、その旨を細川や被告人に相談した」

<2> 「浅尾は、『売却損や架空仲介手数料の計上、交際費限度超過分の損金算入』などにより利益を減縮した申告書を作成した」

<3> 「浅尾は、申告書を税務署長に提出する前に、被告人に対し『記載内容を説明し、提出方の承諾を得』た」

<4> 「昭和五四年六月一九日、被告会社では、交際費限度超過額の損金算入を否認する内容の修正申告書を提出した」

右のうち<4>は事件後のことであるから意味をもたない。右<1>についても「交際費限度超過額の損金算入」は利益減縮手段としては意識されていないから、これまた問題とならない。そうすると残る<2><3>のうち、浅尾の関係では<2>のみが、被告人舛井の関係では<3>のみが問題となるだけである。

次に、被告人舛井の犯意との関連で原判決がなした事実摘示を整理・要約してみよう。

<5> 「山東議員の関係で支払った諸費用につき、被告人が『予め経理担当者に対し、相手の名前を出さずに処理するよう指示』していたので、経理担当者はこれを被告会社の車両経費等として計上した」

<6> 「被告会社では、二子山親方関係の費用につき、広告宣伝費に計上した」

<7> 「被告会社では、成績発表会関係等につき、販売雑費・会議費として計上した」

<8> 「被告会社では、従前右会議費のような交際費の性質を有する費用については、いったん当該科目に計上した後、確定申告の段階で交際費に加算して限度超過額を算出していたが、当期ではそのような計算をせず確定申告をした」

右のうち<6><7><8>は被告会社の誰が行為を担当したものか右判示では不明である(おそらく経理担当者浅尾を指す趣旨であろうか)。被告人舛井との関係で直接問題となるのは結局<5>のみである。

以上によれば、被告会社全体としても「偽りその他不正の行為」が存在していたかどうか疑問であるといわざるをえないし、いわんや被告人舛井の行為として「偽りその他不正の行為」が存在しなかったのは明らかである。

2 被告会社全体における「偽りその他不正の行為」の不存在

ここで問題となるのは、経理担当者浅尾の行為及び行為者を特定せず「被告会社としての処理」と摘示された行為である(被告人舛井の行為は次項で別に問題とするので)。

ところで、まず<5>乃至<8>のうち、「偽りその他不正の行為」を論ずるにあたって結局意味のあるのは<8>である。なぜなら、<5>乃至<7>は、当期に限らず従前より全く同様の経理処理をしていたものであって、何ら不正視されるべき性格を有しない。

右のような各支出の使途に応じ一応該当すると思われる勘定科目に分類帰属させたうえ、確定申告の段階における交際費限度超過額の算出の段階でこれを最終的に経理処理するといったような方法は、一種の便法として経理事務上便利であるというばかりでなく、税法上科目のふり分け基準が必ずしも明確でないことからしても首肯できるところであり、仮装でも隠蔽でもなく、また不正の性格を有するものでもない。結局、確定申告の段階で、即ち「限度額との関係で」これらを損金に算入すべきかどうかを最終的に確定すれば足りるのであるから、結論的に意味のあるのは<8>のみである。

なお、右<5>乃至<7>のち<5>のみは、一見やや性格を異にし、仮装・隠蔽行為的性質を有するかに見える。しかしながら、まず、そもそも「相手の名前を出さずに処理」することが税法上の観点からして「隠蔽」行為といいうるかどうかが問題である。「相手の名前を出さずに処理」することは、それらの支出が「被告会社のためになされたものではないのに被告会社のためになされたように処理」することと同義ではない。本件で問題となる右支出については相手の固有名詞が明らかにならなければそれで足りるという趣旨である。

また、仮にそうでないとしても、被告会社では従前よりこれら交際費の性質を有する費用を支出し場合、その支出の内容に応じていったん当該科目に計上して確定申告の段階で最終的に処理するというのであるから、いずれにしても、右<5>の支出も結論としては形式的に各科目にふり分けられるわけである。そのことは、「相手の名前を出さずに処理」するか否かにかかわらず、そのようにされるわけであるから因果関係がないわけである。結局<5>についても特別の意味はないことになり、<8>の処理を検討すれば足りることになる。

ところで<8>は<2>と同義であり、結局交際費限度額を損金に算入したままで確定申告書を提出することが「偽りその他不正の行為」に該当するかどうかを問題にすれば足りる。そうすると、これは、いわゆる「内容虚偽の過少申告書を提出する行為自体」が「偽りその他不正の行為」にあたるかどうかという問題である。

右解釈基準については、前記第一章三-(四)及び前記第二章二で詳述した。仮に、前記昭和四二年一一月八日最(大)判ないし昭和四八年三月二〇日最(三小)判の示した基準に従うとしても、まず、最低限逋脱の意図が必要であるが、果してこの点に関してもそのような意図が存したかどうか疑問である。なぜなら、前記<1>では「交際費限度超過分の損金算入」については全く意識されておらず、前記<2>の段階でも果して利益減縮の手段として明確に意識されていたかどうか疑わしいからである。また、本件では「他に偽計その他の工作を伴って」いないことは明らかである。前述したように前記<5>乃至<7>自体は何ら仮装・隠蔽行為でもなく、偽計その他の工作でもなく、被告会社における日常の経理処理そのものである。本件では、たんに確定申告書の記載において交際費限度超過額を損金から控除しなかったというだけの行為に過ぎないのである。

また、前記最(大)判によれば右「偽計その他の工作」は「税の賦課徴収を不能もしくは著しく困難ならしめるような」ものでなければならない。前記最(三小)判が「真実の所得を隠蔽し」といっているのも、そのような趣旨で理解することができよう。しかし、本件では前記支出を交際費に加算しなかったからといって、その所得計算上の過誤を発見することが不能もしくは著しく困難になったとはいえない。なぜなら、前述のように被告会社では従前から確定申告の段階で交際費の性質を有する支出を加算するという方法を用いていたというのであるから、従前の処理と比較すれば比較的容易にその誤りを発見できたであろうからである。また、交際費の範囲については、しばしば企業の経理担当者と課税庁との判断が相違するところであり、その誤りの発見は極めて容易である。

以上、被告会社ないし経理担当者浅尾の行為としても「偽りその他不正の行為」があったとはいえない。この点、本件第一審判決も「架空経費の計上等と同列に論じられない」としているところである。ただ、同判決が「被告会社のような青色申告法人にあっては看過できない不正といわざるをえない」としているのは、同判決がいわゆる「国庫説」の立場に立ち、注意義務違背即ち過失をも「偽りその他不正の行為」概念に包摂し、処罰類型の定型性を弛緩させようとしているものだからにほかならない。

3 被告人舛井の行為としての「偽りその他不正の行為」の不存在

ここで検討すべきは<5>及び<3>のみである(前述したように<1>の段階では交際費の点はまだ全く意識されていないから)。ところで<5>における「被告人の指示」も、前述したところから明らかなように、不正な行為たる性質を有しない。従って、結局、問題となるのは、<3>のみである。

ところで、<3>は「申告書の記載内容の説明を受け、提出方の承諾を与えた」というに過ぎない。そもそもかかる文字通りの「消極的行為」まで「偽りその他不正の行為」類型に属するとするのは、余りに逋脱犯における逋脱行為の定型性を弛緩せしめ、かつそれを破壊するものにほかならない。また、申告書の記載内容の説明を受けたからといって、交際費限度超過額の計算上加算されるべき他科目勘定の交際費が実際に加算されているかどうかは判明しない。申告書自体からではそのことは判明しえない。また前記<1>との関係を考えれば、交際費の関係はほとんど問題とならず、浅尾の独自の判断で行ったと考えられるのである(これが極めて技術的なものであり、申告書作成上の純粋経理処理に属するものであることからもそのように言える)。

いずれにしても、被告人舛井の行為としては、「偽りその他不正の行為」があったとはとうてい言えない。然るに被告人舛井に逋脱犯の成立を肯定するのは、被告人舛井の「事業主責任」「団体責任」を問うものであり、監督責任不履行という過失を処罰するものである。

この点について、本件一審判決が

「浅尾の経理処理に被告人舛井が気づかなかったとしても、経理上の具体的な処理は浅尾に一任していたことは被告人舛井の公判供述に照らしても明らかであり、その浅尾が措った不正処理も、結局、被告人舛井の納税に対する姿勢が影響して生じたものといえないではない。こうした事情のもとでは、本件のような結果は、むしろ被告人舛井の容認するところであったと認められざるを得ない。」

と述べているのは、「監督責任論」ないし「連坐制」により被告人舛井を処罰しようということを明言しているものであり、本件の問題点を象徴的に物語っている。

三、故意の不存在

1 非損金性についての認識の不存在

被告会社では、従前より、交際費の性質を有する支出についてもいったん当該科目に計上したうえ、確定申告の段階でこれを加算するという方法を用いていたというのである。従って、本件においては、これらの各支出が交際費に属するか否かという点についての被告人舛井の認識は問題にならないというべきである。仮に被告人舛井においてこれらの支出が交際費に属することを知っていたとしても、確定申告の段階でそれらが加算されて限度超過額が算定されていればそれで足りるのであり、他方確定申告書の記載において大阪はこれら各支出の個性は全く表面に現われてこないからである。そうすると、本件においては、結局、交際費限度超過額の算出上、これらの各支出が加算されなかったという事実を認識していたか否かが問題となるのであり、その認識がない以上は、非損金性の認識も欠くことになる。

また、仮に被告人舛井において右の事実について認識があったとしても、被告人はそれらが交際費の性質を有することを知らなかったのであるから、非損金性の認識を欠く。

2 「偽りその他不正の行為」についての認識の不存在

被告人舛井において交際費限度超過額の損金計上を知る機会があったとすれば、前記<3>の機会のみである。しかしながら、申告書の記載のみからでは、かかる事実を知りえぬのであり、被告人には「偽りその他不正の行為」についての認識がなかった。

四、上告理由

1 第一点 判例違反

確定申告書の作成において交際費限度超過分の損金からの控除を行わなかったことのみを把えて「偽りその他不正の行為」にあたるとした点、並びに右確定申告書の提出に承諾を与えたことを把えて「偽りその他不正の行為」にあたるとした点は、いずれも、前記第一章一1ないし5記載の各判例と相反するものである。

2 第二点 法令の違反

原判決は、被告人舛井の行為としてはもちろんのこと、被告会社全体の行為としても「偽りその他不正の行為」が存せず、また被告人舛井においては右行為の存在について認識していなかったのに逋脱犯の成立を認めたものであり、法人税法一五九条一項の解釈・適用を誤ったものである。しかもそれは本来可罰的でないたんなる監督責任の不履行(過失)を処罰するものであり、判決に影響を及ぼすことが明らかであって、破棄しなければ著しく正義に反する。

3 第三点 重大な事実の誤認

原判決は、前記<2>に関連し、交際費限度超過額の損金算入が利益減縮の手段として意図的になされたものであるか否かにつき、何ら具体的な説明もしていない。

また、前記<3>に関連し、右交際費限度超過額の損金算入についても浅尾が被告人に具体的に説明したか否かという点も、何ら明確な説明をしていない。

もし、原判決が、右二点についていずれもこれを肯定しているものであるとすれば、それは重大な事実誤認である。原審の全記録を精査するも右二つの事実を認めるべき証拠は全くもって存しないからである。

まず、交際費に関連する浅尾の認識については昭和五六年五月二三日付検面調書が、被告人舛井の認識については昭和五六年五月一七日付検面調書が、それぞれ詳細な内容となっている。ところが、これらの調書は、本件で問題となる支出が交際費たる性質を有するか否かという点についてのみ説明しているに過ぎないのである。このことは、前述したように、従前から確定申告書作成の段階で処理することとされていた関係からすると、ほとんど意味をなさないことである。

重要なことは、申告書作成の段階でなにゆえ右処理がなされなかったかという経緯である。その点(即ち前記<2>の点)については本件全証拠によっても全く説明されておらず、従って浅尾が意図的に行ったという認定は絶対に不可能なはずである。

また、前記<3>の点については、

「舛井は、確定申告書の内容については、目を通しているんですか。通してないんですか。報告聞いただけですか。

法人税申告書の別表一ぐらいしか見ません。あとは、すらすらっと見る程度です。」

「確定申告書の署名等の状況は、先程、話が出ましたが、その作成について、あなたのほうから舛井に、一応の説明等はしておりますか。

終った段階でしております。

作成を終ったあと、税務署へ提出する前ですね。

そうです。

どういう話をしておりますか。

そのときは榛名、第四京葉台の土地売却損、一億が計上されていますということを報告しております。

売却損の一億円を計上した数字で確定申告書が作成されているということですね。

そうです。

舛井は、それに対して何かいっておりましたか。

ああ、そうか、その程度です。

それから代表者の押印は、どうい手続で行ないましたか。

舛井に、それを見せたあと、細川に署名してもらいまして、押印は私がしました。」

と浅尾が証言するとおりである(第一回証言)。即ち、架空仲介手数料の計上等については浅尾から被告人に種々説明があったが、交際費の損金計上については全く話題になっていないのである。「53・3・18決算予想メモ」「53・3・20決算予想メモ」においても、経費の詳細については問題にされていないことを考え合わせると、なお一層そのように理解することができる。

右の重大な事実誤認は、判決に影響を及ぼすべきものであり、原判決を破棄しなければ著しく正義に反する。

第六章 貸倒れ損失の発生

一、貸倒れ損失発生の判定要素

1 法人税の課税所得の計算上、売掛金、貸付金等の貸倒れの額が損金となることはいうまでもない。

そして税法上、債権が回収不能による貸倒れとして法人税法二二条三項の損金を構成するのは債務者の支払能力・資産状況等からみて、債権の取立てが不能となるか、あるいは債権の回収の見込のないことが客観的に確実となった場合であることも異論のないところである。(東京地裁昭和五二年一二月二六日判決参照。)

2 具体的には例えば

(一) 債務者が、破産、和議、強制執行又は整理の手続きに入り、あるいは解散又は事業閉鎖を行うに到ったため、又はこれに準ずる場合で回収の見込のない場合。

(二) 債務者の死亡、失踪、行方不明、刑の執行その他これに準ずる事情による回収の見込なきに到った場合。

(三) 債務超過の状態が相当期間継続し、事業再起の見通しなきため回収の見込のない場合。

(四) 天災事故その他経済事情の急変のため回収の見込なきに到った場合。

(五) 債務者の資力喪失等のため債権の放棄又は免除を行った場合。

(六) 前各号に準ずる事情があり債権回収の見込のない場合。

(当初基本通達一一六参照)には、貸金は客観的に回収不能と認められ、貸倒れ損失として損金を構成すると考えられる。

3 因みに、一審判決は

「貸倒れ損失の認定上、損金経理や確定申告は法律上の要件とされていないものの、貸倒れの有無はそれについて直接の利害を有し、回収の能否に最大の関心を有しているはずの債権者において、最も的確に把握しているとみられるから、債権者において他に貸倒れ損失の処理をしている債権がありながら、ある債権につき未だ貸倒れの処理をしていないような事情は、回収の見込の有無の認定にあたり考慮すべき重要な事情の一つとみることができる。」

と述べているが、法人の実際においては、多額の貸倒損が発生したとしても、当該貸倒損の額をそのまま計上することが信用上好ましくない等の経営上の配慮から、あえて貸倒れの処理をせず、あるいは課税庁との争いを予め回避して損金計上をひかえるなど、法人が貸倒損失の経理処理を行なわない例は少なくないし、その理由も千差万別である。

結局当該債権が文字どおり回収できないものである限り、経済的には無価値なのであるから貸倒れ損失の計上の有無を右判決のように貸倒れ損失の認定上ことさらに重視して事実上貸倒損失発生の要件とすることは、その実質において租税法律主義に違反するものと言わなければならない。

二、上告理由

第一点事実誤認

1 貸倒れ損失の発生について

原判決は被告会社の株式会社日本拓商に対する債権二五〇〇万円、株式会社匠都市建築設計事務所に対する債権一〇〇〇万円、北川清水に対する債権七〇〇万円、今井旭に対する債権七七五万四〇〇〇円、坂東孝利に対する債権六〇〇万円、丸信商事有限会社に対する債権五〇〇万円、千代田商事株式会社に対する債権五〇〇万円についていづれも当期中に貸倒損失が発生していたとは認められずこれを排斥した一審判決の判断は正当であると判示したが、原判決には、以下に述べるような判決に影響を及ぼすべき重大な事実誤認があり、これを破棄しなければ著しく正義に反すると認められる。

(一) 株式会社日本拓商関係(二五〇〇万円)

一審判決及びその判断を正当であるとした原判決が当期においては、右債権の回収の見込みのないことが未だ客観的には確実となっていなかったと認定した主たる理由は、被告会社が右債権を保全すべく行なった不動産仮差押物件から、回収できないことが最終的に判明したのは、翌期に入った昭和五三年七月十二日頃に実施された配当手続によってであるということにある。

しかし、記録によれば、当期中の五三年二月二八日に競落許可決定が下され、右競落代金二三八八万円は全額競売手続費用及び抵当権者に対する交付に充てられ、余剰のないことは右物件に設定されていた抵当権の金額からも直ちに判明しており、従って配当手続の実施を待つまでもなく、右競落許可決定をもって、右仮差押物件から回収できないことが、客観的に確実となったことが明らかであって、この点についての一審判決の判断及びこれを認容した原判決には、重大な事実誤認がある。

右の貸倒損失すらも認めない一審判決及び原判決の判断はおよそ貸倒損失の処理をしていない限りは、一切貸倒損失を認めないというに等しく実質的には、損金経理や確定申告を貸倒れ損失発生の要件とするものであって、租税法律主義に反するものといわなければならない。

(二) 右以外の前記各債権についても、いづれも「債務超過の状態が相当期間継続し、事業再起の見通しがないため」あるいは「債務者の刑の執行その他これに準ずる事情」によって、当期において既に回収の見込のない状況にあったことが十分に認められ、とりわけ、北川清水、今井旭、坂東孝利に対する各債権については、翌昭和五四年三月期には課税庁によって正当な損金処理として認容されていること即ち五四年三月期には、回収不能の状況にあったこと、当期と翌期とでは、被告会社と各債権者との関係や、債務者の支払能力・資産状況等に、とくに変化のみられないことからすれば、昭和五四年三月期をまつまでもなく、既に当期において回収不能の状況、すなわち、債権の回収の見込のないことが客観的に確実な状況にあったことが明らかであって(注)、この点についての一審判決及び原判決の判示には、重大な事実誤認がある。

2 所得の認識について

また、少なくとも被告人は、前記各債権を浅尾が貸倒れ損失として計上したか否かにかかわらず、これら債権が当期において既に回収の見込もなく、回収不能の状況にあり、従って貸倒れ損失として本来法人税法二二条三項の損金を構成するものと認識していたものであるから、その限度において所得の存在に対する認識を欠いていたもである。

原判決は、この点の判断を行なわないまま、一審判決の判断を認容して被告人に逋脱の故意を認めたものであって原判決には、被告人の所得の存在に対する認識についての重大な事実誤認がある。

(注)関係記録によれば

<1> 株式会社匠都市建設設計事務所については、代表取締役落合が昭和五二年四月に逮捕され、その後懲役六年の有罪判決を受けて服役したこと、右逮捕当時匠事務所の負債総額は八億円位であったこと、匠事務所の資産には、銀行その他の第三者の担保が設定されており、これらの資産から一般債権にすぎない前記債権の回収ができる見込のなかったことが明らかであり、当期において右債権の回収の見込のないことが確実であった。

<2> 北川清水、坂東孝利らは、いずれも債務超過の状態にあって資産・支払能力がなく、事業再起の見通しもなかったものであり、また今井旭は刑事事件で逮捕され、その後行方不明となっていたものであるから五四年三月期の損金処理をまつまでもなく、当期において同人らに対する各債権の回収の見込のないことが確実であった。

<3> 丸信商事有限会社自身には資産がなく、昭和五三年三月頃は、多額の債務のため整理に追われており、翌五四年一二月には解散に至ったこと、代表者渋谷は資産を有しているものの被告会社に対して義務はないことが明らかであるので、すでに当期において右会社に対する各債権の回収の見込のないことが確実であった。

第七章 量刑不当(上告理由)

一、基本的な問題点

本件の量刑は懲役一年の実刑という極めて厳しいものであった。最初に述べたように、それはあたかも「国庫説」から「責任説」への転換に伴う「処罰寛大主義」から「処罰励行主義」への移行という流れに沿うものの如くである。

しかしながら、本件一審判決及びこれを維持した原判決は、最も基本的な点で誤ちをおかしている。まず第一に、前記第三章から第六章にかけて記載したように、とうてい逋脱犯の成立を認めることの出来ない部分についても犯罪の成立を認め、それを前提として重い量刑を科しているということである。それは逋脱犯の成立要件を極限まで弛緩させ、「団体責任論」の立場から被告人舛井の監督責任を追求し、過失を処罰しているのである。そして、第二に、そのように逋脱犯の構成要件的定型性を根本的に破壊しながら、量刑のみ懲役刑の実刑を科すという背理に陥っているということである。

本件は、松沢判事が最もおそれられた「概括的認識を主張する『国庫説』に拠りながら、量刑については、懲役刑の実刑を科するなどという」「租税処罰法の自殺的な見解」(注1)をまさしく現実の恐怖と化したものである。

二、本件の量刑事情

本件では、まず、前記第三章乃至第六章記載の部分については、逋脱犯が成立しないことを前提として、量刑が定められなければならない。これらの部分が逋脱所得から除かれ、逋脱の結果から除かれるならば、本件の量刑事情は根本的に様相を異にする。

仮に、「概括的認識説」「具体的事実の錯誤説」等の立場に立ち、被告人の「監督責任」、被告人の「団体責任」を追求しようとし、逋脱犯の成立要件を緩やかに解するのであれば、「架空的仲介手数料」を除くその余の手段(前記第三章乃至第六章記載)については、その実質が被告人舛井にとっては過失類型に属することを基本的に考慮すべきであろう。両者は犯情において天地の開きがある。

また、右「架空仲介手数料の計上」についても、前記第六章記載の事情の存在を動機としても考慮すべきである。

更に、量刑にあたっては、「その者が税制上優遇されているか」(医師優遇税制などのように)ということを考慮すべきである(注2)とすれば、本件のように土地重課税の制度により苛酷な税制となっている場合は、被告人に有利な事情として斟酌すべきである。

三、結論

その他本件の諸事情を考えれば、被告人舛井の脱税の前科その他の不利益な事情を考慮に入れても、原判決の量刑は重きに失し、甚しく不当であって、これを破棄しなければ著しく正義に反する。

(注1)松沢智「租税法の基本原理」二三八頁。

(注2)同「租税に関する犯罪」現代刑罰法大系二巻九八頁。

終章 結語

本件において、被告人舛井が逋脱犯の刑責を免れないのは、主として「架空仲介手数料の計上」の部分である。この部分については被告人舛井の積極的な関与が認められ、同人自身そのことを敢えて否定していない(この点は捜査段階以来一貫している)。しかしながら、「期末たな卸土地の除外」「交際費超過限度額の損金算入」「土地重課税」については、「偽りその他不正の行為」への被告人の関与は全く認められないか、少なくとも積極的な関与は認められない。被告人が税務調査の段階に始まり、一審の冒頭から本件の措置を一貫して承服しがたいとしてきたゆえんのものは、右の如き本件事案の特質であろう。

本件一審判決及び原判決には、いかなる行為を租税逋脱犯の可罰類型とすべきかという理論的・政策的な問題、量刑理念を含む処罰理念がいかなるものかという理論的・政策的な問題のいずれにおいても、相当の混乱がみられる。

我々の求めるものは、たとえいかなる立場に立とうとも、“罪刑の均衡”という租税正義である。

○ 上告趣意補充書

和五九年(ア)第五九三号

被告人 (一)日本観光株式会社

(二)舛井敏夫

右の者らに対する法人税法違反被告事件について、弁護人らの上告趣意を次のとおり補充する。

昭和五九年一二月四日

右弁護人 錦織淳

同 鈴木一郎

最高裁判所第二小法廷 御中

一、はじめに

弁護人らは、さきに提出した上告趣意書において、本件一審判決及び原判決が、まさしく、「責任説」の憂える

「概括的認識を主張する『国庫説』に拠りなから、量刑については、懲役刑の実刑を課するなどという見解」(注1)

そのものであることを明らかにした。

そして、本件においては「偽りその他不正の行為」概念自体が拡散させられ、「偽りその他不正の行為」と被告人との結びつきも曖昧にさせられていることを明らかにした。

この補充書においては、「偽りその他不正の行為」の意義とその本件における適用につき、別の角度から論じてみようとするものである。即ち、重加算税の賦課要件たる「隠ぺい・仮装」との関係で本件を論ずることにより、税を免れるための不正手段のうちいかなる類型の行為が、刑法上も可罰的なのかを明らかにしようとするものである。

従って、ここでは、「偽りその他不正の行為」と被告人の結びつきという問題よりも、いわば会社(組織)全体としての行為の評価が問題となるわけである。

二、逋脱犯と重加算税との関係

重加算税は「納税者がその国税の課税標準等又は税額等の計算の基礎となるべき事実の全部又は一部を隠ぺいし、又は仮装し、その隠ぺいし、又は仮装したところに基づき納税申告書を提出していたとき」に課される(国税通則法第六八条第一項)。この重加算税は、一般には、国家の徴税行政の秩序を維持するため、納税義務違反者に対し、租税の形式で課せられた行政上の秩序罰であり、反社会的犯罪行為に対する刑罰とはその性質を異にするものと解されている。(注2)

しかしながら、

「重加算税については、課税要件事実を隠ぺい又は仮装して納税の義務を適正に履行しないというその課税要件が、偽りその他不正の行為により租税を免れるという脱税犯の構成要件と酷似し」(注3)

「課税標準等の計算の基礎になる事実の隠ぺい又は仮装を要件とする重加算税の課税要件は、逋脱罪の構成要件と実際上、ほとんど差異がなく」(注4)

との指摘にあるように、両者の要件はほとんど差異がない。従って、両者がその法的性質を異にするからといって、およそ重加算税の課税対象ともならないようなものまで刑事処分の対象とすることは、実際的にみて妥当性を欠く。このことは、事実として課税庁たる行政庁が重加算税を課していない場合には刑事処分を科すべきではないということを意味するものではないが(重加算税については行政庁に、刑事処分については裁判所に、それぞれ判断がゆだねられるべきことであるから)、法の定める要件が両者酷似していることはいずれにしても否定できないのである。

そして、重加算税と、逋脱犯処罰の実際的機能に着目すると、

「実務上も、すべての脱税を刑事処分の対象とすることは、国家的エネルギーの限界からみても、とうてい不可能なことであるので、脱税に対する制裁は、その大部分を重加算税という行政上の制裁手段によっているのである」(注5)

「敗戦後の混乱期に、シャウプ勧告によっていわば刑罰のピンチヒッターとして登場した感のある重加算税制度じたいに批判的な考え方もつよい(この点について杉村他編・コンメンタール国税通則法六章二節・加算税)。わたくしとしては、とくに刑事制裁を行使しなければならないばあいにのみ、それを行使すべきであり、大部分の逋脱については重加算税を行使するほうが、納税義務違反抑止のための法的統制手段の行使として妥当であるという見地から、重加算税制度を活用する」(注6)

という関係にたつのであり、重加算税適用事案のうち「とくに大口の、したがって違法性の高い脱税が刑事制裁の対象とされている」(注7)のが実情である。

結局、両者はその法的性質を異にするとはいっても、実質的には「大小の関係」に立つものといってさしつかえない。

従って、刑事訴追の対象とされた脱税手段が重加算税の対象たりうるかどうかを検討してみることは、充分に意味のあることなのである。それは、前述したところから明らかなように、両者の構成要件が酷似しているということからのみではなく、いかなる類型の不正手段が刑事的にも可罰的なものとして把えられるべきかという観点、即ち脱税のための不正手段を類型的に考察していくなかから、重加算税の適用が否定されるべきような事案についてはこれをとうてい刑事的可罰類型のうちにとりこむことは出来ないということからも、充分に理由のあることなのである。

そして、更には、このことは量刑事情としても重要なことであり、重加算税の適用を否定され、ないしは疑問視されるような事案について、懲罰刑の実刑を科するなどというのは論外というべきなのである。

三、本件における重加算税適用の当否

重加算税の課税要件である「事実の隠ぺい又は仮装に」については、いかなる事実が隠ぺい又は仮装に該当するかは法令において明らかにされておらず、もっぱら解釈の問題とされている。(注8)現実の徴税行政実務においては、これについていくつかの通達が発せられ、かつ事例の集積により、おおむね妥当な基準が形成されている。

この補充書の別添意見書は、このような徴税行政実務において形成された基準により、本件における重加算税課税の当否を検討したものである。その結果、本件については、「架空仲介手数料の計上」を除き、「期末たな卸土地除外」、「土地重課分のうち建売分の申告漏れ」、「交際費の限度超過分」については、いずれも重加算税を課税すべきものでないことを明らかにしている。その論拠については、一部はさきに提出した上告趣意書と重複する部分もあり、いずれにしろ繰り返しを避ける意味で、弁護人らとしても別添意見書の記載をそのまま援用することとする。

四、結論

このようにみてくると、本件においては、「期末たな卸土地除外」、「土地重課分のうち建売分の申告漏れ」、「交際費の限度超過分」については、重加算税の課税が否定ないし少なくともはなはだしく疑問視され、とうてい刑事的可罰類型たる「偽りその他不正の手段」による逋脱行為があったとは評価しえないのである。このような行為にまで逋脱犯の成立を認めた原判決には、判決に影響を及ぼすべき法令違反があり、これを破棄しなければ著しく正義に反するというべきである。

また、このように重加算税の適用を否定ないし少なくともはなはだしく疑問視される本件事案にまで懲役刑の実刑を科すなどというのは、社会的にみてとうてい公平な量刑とはいえず、原判決の量刑ははなはだしく不当であってこれを破棄しなければ著しく正義に反する。

(注1)松沢智「租税法の基本原理」二三七頁、二三八頁。

(注2)昭和三三年四月三〇日最高裁判所大法廷判決・民集一二巻六号九三八頁。

(注3)田中二郎「租税法」三二八頁。

(注4)(注5)(注6)板倉宏「重加算税賦課の適法性」租税判例百選一四〇頁。

(注7)板倉宏「租税犯に対する刑事制裁の実態」判例タイムズ二〇八号九頁。

(注8)武田昌輔監修「DHCコンメンタール国税通則法」三六三八頁。

日本観光株式会社の昭和五三事業年度分法人税課税処分にかかる

加算税の取扱いとこれに関する意見について

標題の件に関し、昭和五九年(あ)第五九三号法人税法違反被告事件の弁護人から、税務当局における重加算税の課税の実情と本件の問題点に関する意見の開陳を求められましたので、原審の記録を精査したうえ、過去の経験に基づき下記のとおり取りまとめました。

なお、下記については、原審の承認として証言すべく準備した内容と一致しますが、原審においてはその機会がなかったことを申し添えます。

昭和五九年一一月二七日

税理士 松冨善行

略歴

一 氏名、生年月日 松冨善行 大正一二年四月一三日生

二 現住所 東京都多摩市席戸一五一三-二〇

三 最終学歴 昭和二一年九月 京都帝国大学法学部法律学科卒業

四 主要職歴 昭和二五年四月 国税庁上級職試験合格採用

昭和三一年七月 佐野税務署長

昭和三九年七月 東京国税局直税部国税訟務官室長

昭和四五年五月 東京国税不服審判所第一部(法規審査担当)部長審判官

昭和四八年七月 国税庁税務大学校租税理論研究室総括教授

昭和五〇年七月 最高裁判所出向 東京地方裁判所調査官(民事第二、三部関係)

昭和五二年七月 国税庁長官官房主任税務相談官

昭和五三年七月 高松国税不服審判所長

昭和五四年七月 国税庁退官

以上

一 問題点の所在

本件課税処分にかかる加算税の取扱いを見てみると、課税庁は、<1>架空仲介手数料、<2>期末たな卸除外(土地譲渡損の計上)、<3>土地重課分のうち建売分の申告漏れ、<4>交際費の限度超過分の四つの否認項目のうち、<1>、<2>については重加算税を課税し、<3>、<4>については過少申告加算税を課税するにとどめている。

ところで、<1>については、課税標準等の基礎となるべき事実を仮装したことは明白であるから重加算税の課税は当然であるし、この項目に関する起訴については被告もこれを不服としてはいない。

しかるに、<2>についての重加算税の課税は通常の取扱いからみてはなはだ問題であるし、<3>、<4>については通常の取扱いそのものであるが、そのいずれもがほ脱項目として起訴され、被告はこれを争っている。

そこで、<1>を除き、<2>ないし<4>の各項目について重加算税の取扱いの実情を説明し、必要に応じこれに関する私見を付記することとした。

二 課税庁における重加算税の取扱いの実情について

1 期末たな卸土地除外(土地譲渡損の計上)について

(一) 本件土地譲渡損は五三事業年度で否認されても翌期の五四事業年度では損金として認容さるべきものであり、現に課税庁もこれを認容している。その意味でこれは典型的な期間損益の問題なので、まず期間損益に関する重加算税の一般的な取扱いについて説明する。

重加算税との関係で問題となる期間損益の最も一般的なものは、売上げの繰延べと経費の繰上げである。ある事業年度の売上げによる収益をその期に計上せず、翌期に計上した場合、あるいは、翌期に支出した経費をその期に計上した場合は、いずれも当期の所得は過少となるが、重加算税との関係では帳簿記録の虚偽表示等には該当せず、したがって重加算税は課税しない取扱いがなされている。

本件土地譲渡損の計上は、売上げに着目すれば売上げの繰延べではなく売上げの繰上げであり、それが譲渡益を生ずる限りでは当期の所得は過大となり、重加算税の問題は始めから生じない。しかし譲渡損が生ずる限りでは当期の所得は過少となり、売上げの繰延べの場合と全く同じ問題となる。

(二) ところで、この売上げの繰延べ等の期間損益と重加算税の問題については、DHCコンメンタール国税通則法(昭和五七年第一法規出版株式会社発行、武田昌輔監修、以下コメンタールという)では、「売上収益の計上時期については、種々の問題があり、当期の収益となっていない場合においても翌期の収益として経理されているような場合には、そのことをもって隠ぺい又は仮装をした事実があるとすることは困難な場合が多く、重加算税の対象とならない場合が多いものと考えられる。このことは、必要経費又は経費の計上時点についても同様と考えられる。しかしながら、その計上のずれが原始記録等を改ざんしたような場合には、重加算税の対象となるのは当然である」(同書三六三九 三六四〇ページ参照)と解説されている。

たしかに、「売上収益の計上時期については、検収基準、出荷基準、出荷伝票作成時基準等多くの基準があり、通常は、それらの方法のいずれか一の基準を採用し、継続して適用しているが、必要によっては、個々の取引の内容等から、その採用している基準と異なる基準を特別の取引につき採用することがある。このようなことから、その売上収益の計上時期については、種々の問題がある」(同書三六三九ページ参照)という事情がこの問題に関する重加算税の取扱いに影響していることは否定出来ないが、私見によれば、それがこのような取扱いのなされる唯一の根拠ではないと考える。

私見によれば、課税庁がこの問題について重加算税の課税を避ける主要な根拠は、これに重加算税を課税するのは酷であるという心情にある。何故なら、売上げの繰延べにせよ、経費の繰上げにせよ、それに対応する法人税の納税が一年間延ばされるだけのことであり、実質的に見て、国庫の被った損害は当該法人税額の一年間の金利相当分にすぎない。しかるにこれに重加算税を課税するとなると、国税通則法の規定により、当期の過少所得に対応する法人税額をまるまるその課税の基礎とせざるをえない。そのことはまた、完全に売上げ等を隠ぺい又は仮装した者に対する重加算税の課税と均衡を失することにもなる。

当期に売上げが計上されていなくても、それが翌期の収益に計上されていることが確認されたときや、当期に計上した経費が翌期に支出されることが明らかに予測されるようなもので、かつ翌期に支出されたことが確認されたようなときには、事情の如何を問わず重加算税の課税は酷にすぎるから、敢えてこれに目をつぶるというのがこの問題に関する重加算税の取扱いの実情であり、その重要な根拠であると考える。

(三) 公表された審査請求の裁決事例中に法人のたな卸商品の計上もれに伴う重加算税の課税に関するものが二件あるが、いずれも重加算税の賦課決定処分を取り消している。

その一は、期末たな卸商品(菓子)の計上もれ(A営業所二、八二三、四二二円、B営業所分二四四、七九六円、本社分一九三、八四一円)は経理担当者の過失によるもので、請求人の故意に基づくものではないと認定して取り消したものであり(東京国税不服審判所昭四七・六・一五裁決、昭四四・四・一~四五・三・三一事業年度、ぎょうせい発行国税不服審判所裁決例集一二七九~一二八二ページ)、その二は、「たな卸資産に計上もれとなった土地(二、三二一、〇〇〇円)は、決算直前に請求人が購入者の希望により、一区画を二つの区画に分割して売買契約をした残りの一方の土地である。しかし、現場責任者から経理担当者に渡された現場見取図が不完全である等のため、経理担当者が、売買契約された一方の土地を旧区画の全部と誤認したため他の一方が計上もれとなったものであり、本件土地は税務調査前において翌事業年度の売上に計上されているのであるから、その計上もれを仮装又は隠ぺいによるものであるとして重加算税賦課決定することは相当でない」としたものである(昭四六・七・一~四七・六・三〇事業年度、昭四八・一二・一三裁決、国税不服審判所裁決事例集No.九登載)。

この二つの裁決例は、いずれもたな卸資産の計上もれは過失に基づくもので故意に基づくものではないことを重加算税賦課決定処分の取消しの理由としたものであるが、後者については、「本件土地は税務調査前において翌事業年度の売上に計上されている」という事実を理由に附加している点が注目さるべきである。

計上もれのたな卸資産が税務調査前において翌事業年度の売上に計上されているような事例では、本事例のように、たな卸資産の計上もれそのものに故意が認められない場合が多いと思われるが、計上もれに故意と認められるような事情が存在していても、税務調査前に翌事業年度の売上に計上されているようなケースもありえないわけではない。この裁決例からは、このようなケースに重加算税を課税した場合まで取り消すことになるのかどうか明らかではないが、たな卸資産の計上もれが過失に基づくもので故意に基づくものではないという理由で取り消せば足りるところを、わざわざ翌事業年度に売上に計上されているという事実を理由に附加していることは、このようなケースについても、重加算税を課税することには問題があることを示唆しているものといえよう。

(四) 以上のような通常の期間損益に関する重加算税の取扱とやや趣を異にすると思われるのは、個人の譲渡所得税の取扱いである。周知の如く、個人に関する土地税制は毎年のように改正が行われる結果、譲渡所得の帰属年分の如何によって、課せられる所得税が高くなったり低くなったりする。このため故意に有利な年分に譲渡が行われたように契約書を仮装するケースがあるが、この場合は、単に納税の一年間のずれという結果にとどまらず、納税額自体に変動を生ずるので、通常の期間損益と同一に律することは出来ない。

「土地譲渡による所得を申告せず、申告期限後において譲渡の年を仮装するための売買契約書を作成し、買主に対し仮装につき協力を求めている場合、重加算税の賦課決定は適法であるとされた集例」(昭和五〇年五月二〇日大阪地民二判、昭和四七年(行ウ)二八号、前掲コンメンタール三六六三ページ参照)も、かかる故意に基づき虚偽の売買契約書を作成したものと認められるから、重加算税の課税は当然の事例であると考える(税務訴訟資料八一号六〇六ページ参照)。また、公表された審査請求の裁決事例中に、「請求人は、譲渡物件を一括して譲渡したにもかかわらず、これを年を異にして譲渡した旨の契約書を作成し、更に、受領した代金のうち二分の一を超える金額を譲受人からの借入金であるとする仮装の借用証書を作成するなど、真実の取引に基づかない契約書等を基に所得金額等を算定して申告していることは、国税通則法第六八条第一項に規定する事実の隠ぺい又は仮装に該当する」としたものがある(昭和五六年分所得税昭五八・一二・二四裁決、国税不服審判所裁決事例集No.二六登載)が、これも実質的に所得税のほ脱を意図したものであるから同断である。

(五) 本件土地譲渡損の計上につき、課税庁がこれに重加算税を課した根拠が、虚偽の売買契約書の作成にあることは言うまでもない。しかしながら、本件売買契約書は、前記(四)で述べたような実質的な税のほ脱を目的とした虚偽の売買契約書とは根本的にその性質を異にするものである。すなわち、第一に、本件譲渡損の計上により五四事業年度で法人税額が減少しようと、五三事業年度で法人税額が減少しようと、減少法人税額は同一額であり、せいぜい減少法人税額の一年分の金利相当額がほ脱されたにすぎない。第二に五四事業年度は多額な欠損が見込まれたため五三事業年度で利益の調節をはかったと認められるような特段の事情も何等存在しない。

第三に、特に重視されなければならないのは、本件契約の成立の具体的な事情である。もともと本件売買契約は、五三事業年度中にすべての手続きを完了する意図で始められたものであり、事務担当者の繁忙や物件特定の複雑性等のために、その手続きの完了がはからずも五四事業年度にずれ込んだものにすぎない。

したがって、この事情を端的に表明するためには、契約の成立は五四事業年度とし、契約の効力を五三事業年度にそ及させる旨の契約書を作成すべきものであったのであり、かかる契約書が存在していても、課税庁は本件譲渡損の帰属時期はあくまで五四事業年度であると認定することは考えられるとしても、かかる契約書自体を虚偽の契約書と断定して、重加算税を課税することはありえなかったはずである。

本件契約書はその成立日時を仮装したといっても、その実態は上述の如きものであり、これを実質的なほ脱を目的として帰属年分を仮装した契約書と同一視することは到底正当とは言えない。

(六) 本件譲渡損の計上に重加算税を課した原処分には、期間損益に関する重加算税の取扱いの実情から見て重大な疑問があると考える。

2 土地重課分のうち建売分の申告漏れについて

(一) 土地重課分のうち建売にかかる土地分は申告漏れであるが、土地譲渡利益金額の算定の基礎となる取引自体は、すべて正規の帳簿に正確に記帳されている。したがって、重加算税の課税要件である「隠ぺい又は仮装の事実」のうち、「仮装の事実」の存在しないことは明らかである。

ところで事実の隠ぺいとして典型的な事例としては、「二重帳簿の作成、売上等収入の除外、架空仕入れ若しくは架空経費の計上、たな卸資産の一部又は全部の除外等」があげられる(前掲コンメンタール三六三八ページ参照)。

本件の場合は、これら典型的な事例に該当しないことは明らかであるのみならず、他にも、「単なる無申告」を「隠ぺい」とみなさない限り、「隠ぺい」は目しうるような事実は皆無である。

(二) 「故意に売上げその他の収入を計上しない場合」は、重加算税を課税するのがその取扱いの実情であるが、本件の場合建売にかかる売上げがすべて正当に計上されていることは前述のとおりである。したがって本件に重加算税を課税しなかった課税庁の取扱いは正当であるが、かりに「売上げ脱漏の故意」を拡大して、「故意に所得の申告をしなかった場合」、すなわち所得の発生を熟知しながら敢えて申告しなかったケースについても重加算税を課税すべきであるとする見解があるとしても、本件にはかかる故意すら存在していないのである。本件が申告漏れとなった唯一の原因は、建売にかかる土地については利益を生じていないという経理担当者の認識であり、本件建売土地分につき結果として土地譲渡利益金額の発生が課税庁によって認定されたといっても、それは建物と土地と一体になった売値のうち土地の売価を幾らと見るかという推計の問題にすぎない。

(三) 本件の場合、重加算税の取扱いの実情を離れ、かりに「無申告の故意」を重視する立場をとるとしても、かかる故意は全く存在せず、いかなる意味でも重加算税を課税する根拠はないと考える。

(四) なお、公表された審査請求の裁決事例中に、土地重課分のうち建売分の申告漏れに重加算税を課税したケースが全く見られないのは、そのようなケースが皆無であることを物語るものと言える。

3 交際費の限度超過分について

(一) 重加算税の取扱の実情から見て、交際費の限度超過額が重加算税の課税対象とされるのは、「簿外による資金を基として支出した交際費で損金算入限度額を超過する部分に相当する金額がある場合におけるその損金不算入額、つまり、簿外支出の交際費で損金算入が認められなかった金額」(前掲コンメンタール三六三九ページ参照)のみである。

本件の場合、前記一においてあげた「架空仲介手数料」によって正規の帳簿から除外された資金が簿外の交際費に当てられていたとすればその交際費の限度超過分は重加算税の課税の対象となる。

もともと交際費は、「それが事業の遂行上必要なものであり、その費途が明らかである限り、その全額が所得金額の計算上損金の額に算入されるべきものである。しかし、税法上は、冗費節減による企業資本の蓄積という政策的配慮から、交際費支出の抑制の措置がとられ」たものである(清文社発行、田中嘉男著、法人税の基本と計算、昭和五四年版一五二ページ参照)。

簿外による資金の全額が交際費として支出された場合、如上の交際費に関する法的措置がなければ、加算さるべき所得は生じない。したがって、交際費の損金算入限度額を超過したため損金算入が認められず益金に加算された金額は、本来法的規制の結果にすぎないから、「隠ぺい又は仮装の事実」に該当しないという理屈も一応は成り立ちうる。しかし、その限度超過額の実態は、何ら仮装等の事実を伴わない通常の交際費の限度超過額と異なり、隠ぺい又は仮装に基づく脱漏所得の変形したものとも見うるから、これに重加算税を課税する取扱いがなされているのである。

(二) ところで、本件交際費の限度超過額はこれと全くその性質を異にする。その支出金は「車両経費」、「燃料費」、「印刷代」、「福利厚生費」、「広告宣伝費」、「会議費」として計上されており、それらの費目の実態が「交際費」と目すべきものであるとしても、架空の費用を計上することによって交際費の資金を捻出したものではない。むしろ、交際費に関する政策的な法的措置さえなければ、これらの支出はいずれにしても法人の損金となるべきものであるから、支出の内容を具体的に表示する意味からすれば、これらの費目で計上するほうがより望ましいとさえ言えるものである。

(三) 以上のように交際費の限度超過分の問題は、もともと政策的な法的措置から生じたものであり、かかる措置のため「交際費等と類似費用である寄付金、値引及び割戻し、広告宣伝費、福利厚生費、給与等との区分は重要である」(前掲法人税の基本と計算一五二ページ参照)としても、その区分そのものが複雑微妙であるため、実際には多数の通達によって運用されている実情を看過すべきではない。

「広告宣伝費」等の損金科目に計上された支出が実際には全くその実態を備えない架空のものであればともかく、本件のように、それを「交際費」と見るかどうかは見解の相違とも言えるケースについては、すべて重加算税を課さないこととしている現行の取扱いは賢明な措置であると考える。

(四) なお、公表された審査請求の裁決事例中に、本件のような交際費の限度超過分に重加算税を課税したケースが全く見られないのは、そのようなケースが皆無であることを物語るものと言える。

三 結論

期末たな卸土地除外(土地譲渡損の計上)、土地重課分のうち建売分の申告漏れ、交際費の限度超過分の三点については、課税庁における重加算税の取扱いの一般的情況から見て、いずれも重加算税を課税すべき事案ではないと考える。

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例